容といふものは絶えず流動してゐる。そこで形式論はすべて無益となる。――余りに実利的な一般人が、形式論(原理)と実地とを直接連つたものと考へたがる。それが不可ない、たゞ実地に対する賢い良心は「形式論」の闡明を希ふものであるから形式論は、考へられなければならない。
 だが、そんな理窟は誰でも分る。分つてゐてなほ分つてゐないと同様な態度で生きてゐなければならないかゞ分らなければならない――それは人が卑屈になるからだ、必要以上に陰気になるからだ。といふのは形式に呑まれるからなのだ、つまり根性が、なんだか外に理想がありさうに思ひ出すからだ。オーソドックスになるからだ。概念的になるからだ。生命に座標軸を課すからだ。つまり甘えて物を考へるからだ。不真面目になつてるからだ。蓋し、物質のキラビヤカさが人々の卑しさを刺戟するので、卑屈になつたからなのだ。疑惑を抱いたからだ。
 序でに言ふが、物質文明にいちばん卑さを刺戟された奴が、すつかり物質の中に逃げて行つて、その中でばかり生きてゐるために卑しいと一寸見做しがたくなつてゐる奴が珍しくない。かういふ奴が多数をなした時に、卑屈が卑屈と見えなくなつたりしてゐる
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