だ。格別過去や未来を思ふことはしないで、一を一倍しても一が出るやうな現在の中に、慎しく生きてゐるのだ。酒といふ、或る者には不徳の助奏者、或る者には美徳の伴奏者たる金剛液を一つの便り、慎しく生きてゐるのだ。
 発掘されたポムペイ市街の、蠅も鳴かない夏の午《ひる》、鋪石や柱に頭を打ちつけ、ベスビオの噴煙を尻目にかけて、死んで沙漠に埋められようとも、随分馬鹿にはならないことなのを、それでもまあ、日本は東京に、慎しく生きてゐるのだ。
 ――なんてヒステリーなら好加減よすとして、今晩はこれで眠るとして、精神を憩《やす》めておいて、また明日の散歩だ……

 毎朝十一時に御飯を運んで来る、賄屋《まかなひや》の小僧に起こされて、つまり十一時に目を覚ます。真ツ赤な顔をした大きい小僧で、ジャケッツを着てビロードのズボンをはいてゐる。毎朝そいつの顔を見るといやでも目が覚めるくらゐニヤニヤ笑つてゐる。年齢《とし》は二十四ださうである。先達は肺炎を患つて、一ヶ月余り顔を見せなかつた。洋食を持つて来た日は得意である。「今日はまた、チト、変つたものを持つて上りましたア」と云ひながら風呂敷を解く。それから新聞を読んで
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