散歩生活
中原中也

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)卓子《テーブル》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おちよつかい[#「おちよつかい」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)テカ/\した
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「女房でも貰つて、はやくシヤツキリしろよ、シヤツキリ」と、従兄みたいな奴が従弟みたいな奴に、浅草のと或るカフエーで言つてゐた。そいつらは私の卓子《テーブル》のぢき傍で、生ビール一杯を三十分もかけて飲んでゐた。私は御酒を飲んでゐた。好い気持であつた。話相手が欲しくもある一方、ゐないこそよいのでもあつた。
 其処を出ると、月がよかつた。電車や人や店屋の上を、雲に這入つたり出たりして、涼しさうに、お月様は流れてゐた。そよ風が吹いて来ると、私は胸一杯呼吸するのであつた。「なるほどなア、シヤツキリしろよ、シヤツキリ――かア」
 私も女房に別れてより茲《ここ》に五年、また欲しくなることもあるが、しかし女房がゐれば、こんなに呑気に暮すことは六ヶ敷《むづかし》からうと思ふと、優柔不断になつてしまふ。

 それから銀座で、また少し飲んで、ドロンとした目付をして、夜店の前を歩いて行つた。四角い建物の上を月は、やつぱり人間の仲間のやうに流れてゐた。
 初夏なんだ。みんな着物が軽くなつたので、心まで軽くなつてゐる。テカ/\した靴屋の店や、ヤケに澄ました洋品店や、玩具《おもちや》屋や、男性美や、――なんで此の世が忘らりよか。
「やア――」といつて私はお辞儀をした。日本が好きで遥々《はるばる》独乙から、やつて来てペン画を描《か》いてる、フリードリッヒ・グライルといふのがやつて来たからだ。
「イカガーデス」にこ/\してゐる。顳《こめかみ》をキリモミにしてゐる。今日は綺麗な洋服を着てゐる。ステツキを持つてる。
「たびたびどうも、複製をお送り下すつて難有《ありがた》う」
「地霊《ルル》…………アスタ・ニールズン」彼はニールズンを好きで、数枚その肖顔《にがほ》を描いてる男である。私の顔をジロ/\みながら、一緒に散歩したものか、どうかと考へてゐる。彼も淋しさうである。沁《し》むやうに笑つてゐる。
「アスタ・ニールズン!」

 私一人の住居のある、西荻窪に来てみると、まるで店灯がトラホームのやうに見える。水菓子屋が鼻風邪でも引いたやうに見える。入口の暗いカフヱーの、中から唄が聞こえてゐる。それからもう直ぐ畑道だ、蛙が鳴いてゐる。ゴーツと鳴つて、電車がトラホームのやうに走つてゆく。月は高く、やつぱり流れてゐる。
 暗い玄関に這入ると、夕刊がパシヤリと落ちてゐる。それを拾ひ上げると、その下から葉書が出て来た。
 その後御無沙汰。一昨日可なりひどい胃ケイレンをやつて以来、お酒は止めです。試験の成績が分りました。予想通り二科目落第。云々。
 静かな夜である。誰ももう通らない。――女と男が話しながらやつて来る。めうにクン/\云つてゐる。女事務員と腰弁くらゐの所だ。勿論恋仲だ。シヤツキリはしてゐねえ。私の家が道の角にあるものだから、私の家の傍では歩調をゆるめて通つてゐる。
 何にも聞きとれない。恐らく御当人達にも聞こえ合つてはゐない。クンクン云つてゐる。

 夢みるだの、イマジネーションだの、諷刺だのアレゴリーだのと、人は云ふが、大体私にはそんなことは分らない。私の頭の中はもはや無一文だ。昔は代数も幾何もやつたのだが、今は何にも覚えてゐない。
 それでも結構生きながらへることは嬉しいのだが、嬉しいだけぢやア済まないものなら、どうか一つ私に意義ある仕事を教へて呉れる人はゐないか。抑々《そもそも》私は測鉛のやうに、身自らの重量に浸つてゐることのほか、何等の興味を感じない。
 世には人生を、己が野心の餌食と心得て、くたぶれずに五十年間生きる者もある。
 或は又、己が信念によつて、無私な動機で五十年間仕事する人もある。
 私はといへば、人生を己が野心の対象物と心得ても猶くたびれない程虎でもなく、かといつて己が信念なぞといふものは、格別形態を採る程湧き出ても来ぬ。何にもしなければ怠け者といふだけの話で、ともかく何かしようとすれば、ほんのおちよつかい[#「おちよつかい」に傍点]程度のことしか出来ぬ。所詮はくたばれア、いちばん似合つてるのかも知れないけれど、月が見えれば愉しいし、雲くらゐ漠としたのでよけれア希望だつて湧きもするんだ。それを形態化さうなぞと思へばこそ額に皺も寄せるのだが、感ずることと造ることとは真反対のはたらきだとはよう云うた、おかげで私はスランプだ。
 尤もスランプだからといつて、慌てもしない泣きもしない。消極的な修養なら、積みすぎるくらゐ積んでゐる。慎《つつま》しく生きてゐるん
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