うない。
あらゆるものは古代歴史と
花崗岩のかなたの地平の目の色。

今朝はすべてが領事館旗のもとに従順で、
私は錫《しやく》と広場と天鼓のほかのなんにも知らない。
軟体動物のしやがれ声にも気をとめないで、
紫の蹲《しやが》んだ影して公園で、乳児は口に砂を入れる。

         (水色のプラットホームと
         躁《はしや》ぐ少女と嘲笑《あざわら》ふヤンキイは
         いやだ いやだ!)

ぽけつと[#底本では「ぽけっと」]に手を突込んで
路次を抜け、波止場に出でて
今日の日の魂に合ふ
布切屑《きれくづ》をでも探して来よう。


黄 昏

渋つた仄《ほの》暗い池の面《おもて》で、
寄り合つた蓮の葉が揺れる。
蓮の葉は、図太いので
こそこそとしか音をたてない。

音をたてると私の心が揺れる、
目が薄明るい地平線を逐《お》ふ……
黒々と山がのぞきかかるばつかりだ
――失はれたものはかへつて来ない。

なにが悲しいつたつてこれほど悲しいことはない
草の根の匂ひが静かに鼻にくる、
畑の土が石といつしよに私を見てゐる。

――竟《つひ》に私は耕やさうとは思はない!
ぢいつと茫然黄昏《ぼんやりたそがれ》の中に立つて、
なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩みだすばかりです


深夜の思ひ

これは泡立つカルシウムの
乾きゆく
急速な――頑ぜない女の児の泣声だ、
鞄屋の女房の夕《ゆふべ》の鼻汁だ。

林の黄昏《たそがれ》は
擦《かす》れた母親。
虫の飛交ふ梢のあたり、
舐子《おしやぶり》のお道化《どけ》た踊り。
波うつ毛の猟犬見えなく、
猟師は猫背を向ふに運ぶ。
森を控へた草地が
  坂になる!

黒き浜辺にマルガレエテが歩み寄する
ヴェールを風に千々にされながら。
彼女の肉《しし》は跳び込まねばならぬ、
厳《いか》しき神の父なる海に!

崖の上の彼女の上に
精霊が怪しげなる条《すぢ》を描く。
彼女の思ひ出は悲しい書斎の取片附け
彼女は直きに死なねばならぬ。


冬の雨の夜

 冬の黒い夜をこめて
どしやぶりの雨が降つてゐた。
――夕明下《ゆふあかりか》に投げいだされた、萎《しを》れ大根《だいこ》の陰惨さ、
あれはまだしも結構だつた――
今や黒い冬の夜をこめ
どしやぶりの雨が降つてゐる。
亡き乙女達の声さへがして
ae ao,ae ao,eo,aeo eo![#この行の「e」はすべてアクサン(´)付き]
 その雨の中を漂ひながら
いつだか消えてなくなつた、あの乳白の※[#「浮」のさんずいをにくづきにした文字、37]嚢《へうなう》たち……
今や黒い冬の夜をこめ
どしやぶりの雨が降つてゐて、
わが母上の帯締めも
雨水《うすい》に流れ、潰れてしまひ、
人の情けのかずかずも
竟《つひ》に蜜柑《みかん》の色のみだつた?……


帰 郷

柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
    縁の下では蜘蛛《くも》の巣が
    心細さうに揺れてゐる

山では枯木も息を吐く
あゝ今日は好い天気だ
    路|傍《ばた》の草影が
    あどけない愁《かなし》みをする

これが私の故里《ふるさと》だ
さやかに風も吹いてゐる
    心置なく泣かれよと
    年増婦《としま》の低い声もする
あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ


凄じき黄昏

捲き起る、風も物憂き頃ながら、
草は靡《なび》きぬ、我はみぬ、
遐《とほ》き昔の隼人《はやと》等を。

銀紙《ぎんがみ》色の竹槍の、
汀《みぎは》に沿ひて、つづきけり。
――雑魚《ざこ》の心を俟《たの》みつつ。

吹く風誘はず、地の上の
敷きある屍《かばね》――
空、演壇に立ちあがる。

家々は、賢き陪臣《ばいしん》、
ニコチンに、汚れたる歯を押匿す。


逝く夏の歌

並木の梢が深く息を吸つて、
空は高く高く、それを見てゐた。
日の照る砂地に落ちてゐた硝子《ガラス》を、
歩み来た旅人は周章《あわ》てて見付けた。

山の端は、澄んで澄んで、
金魚や娘の口の中を清くする。
飛んでくるあの飛行機には、
昨日私が昆虫の涙を塗つておいた。

風はリボンを空に送り、
私は嘗《かつ》て陥落した海のことを 
その浪のことを語らうと思ふ。

騎兵聯隊や上肢の運動や、
下級官吏の赤靴のことや、
山沿ひの道を乗手《のりて》もなく行く
自転車のことを語らうと思ふ。


悲しき朝

河瀬の音が山に来る、
春の光は、石のやうだ。
筧《かけひ》の水は、物語る
白髪《しらが》の嫗《をうな》にさも肖《に》てる。

雲母の口して歌つたよ、
背《うし》ろに倒れ、歌つたよ、
心は涸《か》れて皺枯《しわが》れて、
巌《いはほ》の上の、綱渡り。

知れざる炎、空にゆき!

響の雨は、濡れ冠る!

・・・・・
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