時こそ今は花は香炉に打薫じ
ボードレール
時こそ今は花は香炉に打薫《うちくん》じ、
そこはかとないけはひです。
しほだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。
いかに泰子、今こそは
しづかに一緒に、をりませう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情け、みちてます。
いかに泰子、いまこそは
暮るる籬《まがき》や群青《ぐんじやう》の
空もしづかに流るころ。
いかに泰子、今こそは
おまへの髪毛《かみげ》なよぶころ
花は香炉に打薫じ、
羊の歌
羊の歌
安原喜弘に
I 祈 り
死の時には私が仰向《あふむ》かんことを!
この小さな顎《あご》が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかつたことのために、
罰されて、死は来たるものと思ふゆゑ。
あゝ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!
II
思惑よ、汝 古く暗き気体よ、
わが裡《うち》より去れよかし!
われはや単純と静けき呟《つぶや》きと、
とまれ、清楚のほかを希《ねが》はず。
交際よ、汝陰鬱なる汚濁《をぢよく》の許容よ、
更《あらた》めてわれを目覚ますことなかれ!
われはや孤寂に耐へんとす、
わが腕は既に無用の有《もの》に似たり。
汝、疑ひとともに見開く眼《まなこ》よ
見開きたるまゝに暫しは動かぬ眼よ、
あゝ、己の外をあまりに信ずる心よ、
それよ思惑、汝 古く暗き空気よ、
わが裡より去れよかし去れよかし!
われはや、貧しきわが夢のほかに興ぜず
III
我が生は恐ろしい嵐のやうであつた、
其処此処《そこここ》に時々陽の光も落ちたとはいへ。
ボードレール
九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有《いう》であるやうに
またそれは、凭《よ》つかかられるもののやうに
彼女は頸をかしげるのでした
私と話してゐる時に。
私は炬燵《こたつ》にあたつてゐました
彼女は畳に坐つてゐました
冬の日の、珍しくよい天気の午前
私の室《へや》には、陽がいつぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶《みみのは》 陽に透きました。
私を信頼しきつて、安心しきつて
かの女の心は蜜柑《みかん》の色に
そのやさしさは氾濫《はんらん》するなく、かといつて
鹿のやうに縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読|翫味《ぐわんみ》しました。
IIII
さるにても、もろに侘《わび》しいわが心
夜な夜なは、下宿の室《へや》に独りゐて
思ひなき、思ひを思ふ 単調の
つまし心の連弾よ……
汽車の笛聞こえもくれば
旅おもひ、幼き日をばおもふなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思はず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……
思ひなき、おもひを思ふわが胸は
閉ざされて、醺生《かびは》ゆる手匣《てばこ》にこそはさも似たれ
しらけたる脣《くち》、乾きし頬
酷薄の、これな寂莫《しじま》にほとぶなり……
これやこの、慣れしばかりに耐へもする
さびしさこそはせつなけれ、みづからは
それともしらず、ことやうに、たまさかに
ながる涙は、人恋ふる涙のそれにもはやあらず……
憔 悴
Pour tout homme ,il vient une e[#アクサン(´)付きのe]poque ou[#アクサン(`)付きのu] l'homme languit. ― Proverbe.
Il faut d'abord avoir soif……
―Cathe[#アクサン(´)付きのe]rine de Me[#アクサン(´)付きのe]dicis.
私はも早、善い意志をもつては目覚めなかつた
起きれば愁《うれ》はしい 平常《いつも》のおもひ
私は、悪い意思をもつてゆめみた……
(私は其処《そこ》に安住したのでもないが、其処を抜け出すことも叶《かな》はなかつた)
そして、夜が来ると私は思ふのだつた、
此の世は、海のやうなものであると。
私はすこししけてゐる宵の海をおもつた
其処を、やつれた顔の船頭は
おぼつかない手で漕ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面《おもて》を、にらめながらに過ぎてゆく
II
昔 私は思つてゐたものだつた
恋愛詩なぞ愚劣なものだと
今私は恋愛詩を詠み
甲斐あることに思ふのだ
だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい
その心が間違つてゐるかゐないか知らないが
とにかくさういふ心が残つてをり
それは時々私をいらだて
とんだ希望を起させる
昔私は思つて
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