どうも、生きてる者のやうぢやあなかつたあね。
彼奴の目は、沼の水が澄んだ時かなんかのやうな色をしていたあね。
話してる時、ほかのことを考へてゐるやうだつたあね。
短く切つて、物を云ふくせがあつたあね。
つまらない事を、細かく覚えていたりしたあね。』

『ええさうよ。――死ぬつてことが分かつてゐたのだわ?
星をみてると、星が僕になるんだなんて笑つてたわよ、たつた先達《せんだつて》よ。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
たつた先達よ、自分の下駄を、これあどうしても僕のぢやないつていふのよ。』
   
   3
草がちつともゆれなかつたのよ、
その上を蝶々がとんでゐたのよ。
浴衣《ゆかた》を着て、あの人縁側に立つてそれを見てるのよ。
あたしこつちからあの人の様子 見てたわよ。
あの人ジッと見てるのよ、黄色い蝶々を。
お豆腐屋の笛が方々で聞こえてゐたわ、
あの電信柱が、夕空にクッキリしてて、
――僕、つてあの人あたしの方を振向くのよ、
昨日三十貫くらゐある石をコジ起しちやつた、つてのよ。
――まあどうして、どこで?つて あたし訊《き》いたのよ。
するとね、あの人あたしの目をジッとみるのよ、
怒つてるやうなのよ、まあ……あたし怖かつたわ。

死ぬまへつてへんなものねえ……


 修羅街輓歌
    関口隆克に

   序 歌
忌《いま》はしい憶《おも》ひ出よ、
去れ! そしてむかしの
憐みの感情と
ゆたかな心よ、
返つて来い!

  今日は日曜日
  縁側には陽が当る。
  ――もういつぺん母親に連れられて
  祭の日には風船玉が買つてもらひたい、
  空は青く、すべてのものはまぶしくかゞやかしかつた……

  忌はしい憶ひ出よ、
  去れ!
     去れ去れ!

   II 酔 生
私の青春も過ぎた、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
私の青春も過ぎた。

ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあむまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!

それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。

いま茲《ここ》に傷つきはてて、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
おゝ、霜にしみらの鶏鳴よ……

   III 独 語
器の中の水が揺れないやうに、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
さうでさへあるならば
モーションは大きい程いい。

しかしさうするために、
もはや工夫《くふう》を凝らす余地もないなら……
心よ、
謙抑にして神恵を待てよ。

   IIII
いといと淡き今日の日は
雨|蕭々《せうせう》と降り洒《そそ》ぎ
水より淡《あは》き空気にて
林の香りすなりけり。

げに秋深き今日の日は
石の響きの如くなり。
思ひ出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。

まことや我は石のごと
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。

それよかなしきわが心
いはれもなくて拳《こぶし》する
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。


 雪の宵 

      青いソフトに降る雪は
      過ぎしその手か囁《ささや》きか  白秋

ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁きか
  
  ふかふか煙突|煙《けむ》吐いて、
  赤い火の粉も刎《は》ね上る。

今夜み空はまつ暗で、
暗い空から降る雪は……

  ほんにわかれたあのをんな
  いまごろどうしてゐるのやら。

ほんに別れたあのをんな、
いまに帰つてくるのやら

  徐《しづ》かに私は酒のんで
  悔と悔とに身もそぞろ。

しづかにしづかに酒のんで
いとしおもひにそそらるる……

  ホテルの屋根に降る雪は
  過ぎしその手か、囁きか

ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。


 生ひ立ちの歌

   I
    幼年時
私の上に降る雪は
真綿《まわた》のやうでありました

    少年時
私の上に降る雪は
霙《みぞれ》のやうでありました

    十七―十九
私の上に降る雪は
霰《あられ》のやうに散りました

    二十―二十二
私の上に降る雪は
雹《ひよう》であるかと思はれた

    二十三
私の上に降る雪は
ひどい吹雪とみえました

    二十四
私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……

   II
私の上に降る雪は
花びらのやうに降つてきます
薪《たきぎ》の燃える音もして
凍るみ空の黝《くろ》む頃

私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸べて降りました

私の上に降る雪は
熱い額に落ちもくる
涙のやうでありました

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生したいと祈りました

私の上に降る雪は
いと貞潔でありました


 時こそ今は……
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