o eo![#この行の「e」はすべてアクサン(´)付き]
 その雨の中を漂ひながら
いつだか消えてなくなつた、あの乳白の※[#「浮」のさんずいをにくづきにした文字、37]嚢《へうなう》たち……
今や黒い冬の夜をこめ
どしやぶりの雨が降つてゐて、
わが母上の帯締めも
雨水《うすい》に流れ、潰れてしまひ、
人の情けのかずかずも
竟《つひ》に蜜柑《みかん》の色のみだつた?……


帰 郷

柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
    縁の下では蜘蛛《くも》の巣が
    心細さうに揺れてゐる

山では枯木も息を吐く
あゝ今日は好い天気だ
    路|傍《ばた》の草影が
    あどけない愁《かなし》みをする

これが私の故里《ふるさと》だ
さやかに風も吹いてゐる
    心置なく泣かれよと
    年増婦《としま》の低い声もする
あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ


凄じき黄昏

捲き起る、風も物憂き頃ながら、
草は靡《なび》きぬ、我はみぬ、
遐《とほ》き昔の隼人《はやと》等を。

銀紙《ぎんがみ》色の竹槍の、
汀《みぎは》に沿ひて、つづきけり。
――雑魚《ざこ》の心を俟《たの》みつつ。

吹く風誘はず、地の上の
敷きある屍《かばね》――
空、演壇に立ちあがる。

家々は、賢き陪臣《ばいしん》、
ニコチンに、汚れたる歯を押匿す。


逝く夏の歌

並木の梢が深く息を吸つて、
空は高く高く、それを見てゐた。
日の照る砂地に落ちてゐた硝子《ガラス》を、
歩み来た旅人は周章《あわ》てて見付けた。

山の端は、澄んで澄んで、
金魚や娘の口の中を清くする。
飛んでくるあの飛行機には、
昨日私が昆虫の涙を塗つておいた。

風はリボンを空に送り、
私は嘗《かつ》て陥落した海のことを 
その浪のことを語らうと思ふ。

騎兵聯隊や上肢の運動や、
下級官吏の赤靴のことや、
山沿ひの道を乗手《のりて》もなく行く
自転車のことを語らうと思ふ。


悲しき朝

河瀬の音が山に来る、
春の光は、石のやうだ。
筧《かけひ》の水は、物語る
白髪《しらが》の嫗《をうな》にさも肖《に》てる。

雲母の口して歌つたよ、
背《うし》ろに倒れ、歌つたよ、
心は涸《か》れて皺枯《しわが》れて、
巌《いはほ》の上の、綱渡り。

知れざる炎、空にゆき!

響の雨は、濡れ冠る!

・・・・・
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