の全ての意味があるのを、その影響以前に於てだけ刹那を考へてゐた泡鳴は、悲劇、即ち生死合一境――言換れば慈愛の境地を見ることがなかつた。
顧ふに、彼こそ「若い人に同情心は不足勝なものです」と言はれる場合の、その「若い人」である……)
扨、私は近代病者の一例を御紹介するが、その前に一言前置きしなければならない。近頃人々は、「唯物、々々」と云つてゐるが、彼等がさう云つてゐる時くらゐ唯心的なものはないやうである。
惟ふに、物と心とは同時に在る[#「在る」に傍点]。今仮りに「太初に言葉ありき」といふことを考へてみるに、そは「太初に意ありき」といふことであると同時に「太初に意を聴かされしもの[#「もの」に傍点]ありき」といふことである。
即ち実在は人間の思考作用に入り来るや空間化され、而してその空間化されし実在に於ては、主語と客語は常に転換され得る。
之を要するに、物は心を予想し、心は物を予想するのがザインであり、それを展開するものが夢《ゾルレン》である、といふことである。
而して夢が実践されるは情意的であり、――かくて、情けを否認するは否認者自身の生を否認することであり、生存者が生
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