は個性なぞと呼ばれてゐるものの裡にあるのではない。)
扨、対抗的でなくなるためには人は先づ克己を持てばよい。尤も、克己なる語の用ゐられる多くの場合は個人精神の中のこととしてであるが、私の今云ふ意味は、誠実であるといふことをも含むでゐる。
顧ふに、十九世紀前半までの芸術は、先づ自然をだけ克服したのだと観れば観られる。その後交通は急劇に頻繁となり、人は竟に自然をだけ克服する力では、眩ぐるしき対人圏に於て誠実たり得ず、やがては我を忘れるに到つたのである。我を忘れた時にも猶存するものは、作用に非ずして対象のみであり、斯かる時近時の芸術が方法的となり、恰かも結構な骨に紙の肉を張つたやうであることは、首肯出来る所であらう。
誠実たること――即ち愚痴つぽくないためには、敬虔なる感情を持し得るの必要、或は絶えず意識的なる自己葛藤が必要であらう。何れにしても結構で、前者と後者とには各仕事がある。前者は詩の方面であり、後者は散文の方面である。
頻繁なる対人圏にあつて、各人が各人で朗らかであり得ぬ程度に比例して人々は互の「顔色を覗ふ」こと盛となる、即ち相対的となる、即ち創作的気心より遠ざかるわけであ
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