の全ての意味があるのを、その影響以前に於てだけ刹那を考へてゐた泡鳴は、悲劇、即ち生死合一境――言換れば慈愛の境地を見ることがなかつた。
 顧ふに、彼こそ「若い人に同情心は不足勝なものです」と言はれる場合の、その「若い人」である……)

 扨、私は近代病者の一例を御紹介するが、その前に一言前置きしなければならない。近頃人々は、「唯物、々々」と云つてゐるが、彼等がさう云つてゐる時くらゐ唯心的なものはないやうである。
 惟ふに、物と心とは同時に在る[#「在る」に傍点]。今仮りに「太初に言葉ありき」といふことを考へてみるに、そは「太初に意ありき」といふことであると同時に「太初に意を聴かされしもの[#「もの」に傍点]ありき」といふことである。
 即ち実在は人間の思考作用に入り来るや空間化され、而してその空間化されし実在に於ては、主語と客語は常に転換され得る。
 之を要するに、物は心を予想し、心は物を予想するのがザインであり、それを展開するものが夢《ゾルレン》である、といふことである。
 而して夢が実践されるは情意的であり、――かくて、情けを否認するは否認者自身の生を否認することであり、生存者が生存を否認することは不可能であり、結局さらば彼の否認とはほんの心理的一事実に過ぎないとなら、さつさと人々は情けを認容し、謂はばチエホフの微笑の中に行き、――近代よ、汝の神経衰弱より放たれるがよい。
 甞て彼――一近代病者は、「情けぞ人の命なる」といふヴェルレーヌが一詩に不図心惹かれ、惹かれた迄はつつましやかであつたが、惹かれ終つて彼はそはそはしはじめた。
「どうしたのだ」と訊ねると、羞むともなく羞みながら、「それでは私の場合では何を愛せばよいか?」といふのだ。
「貴方が情けを感ずるものを」と答へると、間もなく彼はイライラしだした。
 では彼は情けを持たぬのであらうか? 否! 生きとし生けるもの無情ではない。唯彼の場合は、情けではないが情けの実質(層)が、可なり錯乱してゐるのである。
 何よりも彼はもと善良な人で、その善良は今も依然存する[#「存する」に傍点]が、彼の善良は働き[#「働き」に傍点]を失つてゐる。
 注意せよ、彼は以前には驚くべく観念明晰な男であつたが、やがてその観念を自己の裡に位置せしめる底のもの、即ち自然――手を差伸べもしないが手を退きもしないもの、――が人間の裡にあつて
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