ひ出す。
――俺は、棄てられたのだ! 郊外の道が、シツトリ夜露に湿つてゐた。郊外電車の轍《わだち》の音が、暗い、遠くの森の方でしてゐた。私は身慄ひした。
停車場はそれから近くだつたのだが、とても直ぐ電車になぞ乗る気にはなれなかつたので、ともかく私は次の駅まで、開墾されたばかりの、野の中の道を歩くことにした。――――――――――
新しい、私の下宿に着いたのは、零時半だつた。二階に上ると、荷物が来てゐた。蒲団だけは今晩荷を解かなければならないと思ふことが、異常な落胆を呼び起すのであつた。そのホソビキのあの脳に昇る匂ひを、覚えてゐる。
直ぐは蒲団の上に仰向きになれなくて、暫くは枕に肘《ヒヂ》を突いてゐたが、つらいことだつた。涙も出なかつた。仕方がないから聖書を出して読みはじめたのだが、何処を読んだのかチツトも記憶がない。なんと思つて聖書だけを取り出したのだつたか、今とあ[#「あ」に「ママ」の注記]つては可笑しいくらゐだ。
さて茲《ここ》で、かの小説家と呼ばれる方々の、大抵が、私と女と新しき男とのことを書き出されるのであらうが、そして読者も定めしそれを期待されるのであらうが、不幸なことに私はそれに興味を持たぬ。そのイキサツを書くよりも、そのイキサツに出会つた私が、その後どんな生活をしたかを私は書かうと思ふのである。
気の弱さ――これのある人間はいつたい善良だ。そして気の弱さは、気の弱い人が人を気にしない間、善良をだけつくるのだが、人を気にしだすや、それは彼自身の生活を失はせる、いとも困つた役をしはじめる。つまり彼は、だんだん、社交家であるのみの社交家に陥れられてゆくのだ。恰度それは、未だあまり外界に触れたことのない、動揺を感じたことのない赤ン坊が、あまりに揺られたり驚かされたりした場合に、むし[#「むし」に傍点]を起す過程と同様である。そして近代人といふのは、多いか少いかこのむし[#「むし」に傍点]なのではないか? 殊に急劇に物質文明を輸入した日本に於てさうではないか?
近代にあつて、このむし[#「むし」に傍点]の状態に陥らないためには、人は鈍感であるか又、非常に所謂「常に目覚めてあれ」の行へる人、つまりつねに前方を瞶《みつ》めてゐる、かの敬虔な人である必要がある。さて、
私が女に逃げられる日まで、私はつねに前方を瞶めることが出来てゐたのと[#「と」に「
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中原 中也 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング