、居ないのか
おゝ、百万の金の鳥、当来の精力よ!
だが、惟《(おも)》へば私は哭《(な)》き過ぎた。曙は胸|抉《ゑぐ》り、
月はおどろしく陽はにがかつた。
どぎつい愛は心|蕩《とろ》かす失神で私をひどく緊《し》めつけた。
おゝ! 竜骨も砕けるがよい、私は海に没してしまはう!
よし今私が欧羅巴の水を望むとしても、それははや
黒い冷たい林の中の瀦水《いけみづ》で、其処に風薫る夕まぐれ
子供は蹲《(しやが)》んで悲しみで一杯になつて、放つのだ
五月の蝶かといたいけな笹小舟。
あゝ浪よ、ひとたびおまへの倦怠にたゆたつては、
綿船《わたぶね》の水脈《みを》ひく跡を奪ひもならず、
旗と炎の驕慢を横切《よぎ》りもならず、
船橋の、恐ろしい眼の下をかいくぐることも、出来ないこつた。
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虱捜す女
嬰児の額が、赤い憤気《むづき》に充ちて来て、
なんとなく、夢の真白の群がりを乞うてゐるとき、
美しい二人の処女《をとめ》は、その臥床辺《ふしどべ》に現れる、
細指の、その爪は白銀の色をしてゐる。
花々の乱れに青い風あたる大きな窓辺に、
二人はその子を坐らせる、そして
露|滴《しづ》くふさふさのその子の髪に
無気味なほども美しい細い指をばさまよはす。
さて子供《かれ》は聴く気づかはしげな薔薇色のしめやかな蜜の匂ひの
するやうな二人の息《いき》が、うたふのを、
唇にうかぶ唾液か接唇《(くちづけ)》を求める慾か
ともすればそのうたは杜切れたりする。
子供《かれ》は感じる処女《をとめ》らの黒い睫毛《(まつげ)》がにほやかな雰気《けはひ》の中で
まばたくを、また敏捷《すばしこ》いやさ指が、
鈍色《にびいろ》の懶怠《たゆみ》の裡《うち》に、あでやかな爪の間で
虱を潰す音を聞く。
たちまちに懶怠《たゆみ》の酒は子供の脳にのぼりくる、
有頂天になりもやせんハモニカの溜息か。
子供は感ずる、ゆるやかな愛撫につれて、
絶え間なく泣きたい気持が絶え間なく消長するのを。
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母音
Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは赤、母音たち、
おまへたちの穏密な誕生をいつの日か私は語らう。
A、眩ゆいやうな蠅たちの毛むくぢやらの黒い胸衣《むなぎ》は
むごたらしい悪臭の周囲を飛びまはる、暗い入江。
E、蒸気や天幕《テント》のはたゝめき、誇りかに
槍の形をした氷塊、真白の諸
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