が決った時、その芸術は衰微|甚《はなは》だしい時であると見ていいと思う。父を一日も永く生かしてやりたいと願う時、父は胃癌《いがん》に罹《かか》っている。
何々の職人は広い東京にたった一人、京都に一人、平家物語りを語り得るものは名古屋に一人、芸妓は富田《とんだ》屋、花魁は島原、油絵描きはパリに幾人にしてそれでおしまいという事にならぬとは限らない。
最近、最も景気がよくて盛んな国、アメリカにどんな画家が輩出しているのか、寡聞《かぶん》な私は知らないのである。アメリカでは映画と広告美術があれば事は足《た》っているかも知れない。また従って優美な美術家を今更自分の国から出そうとも考えていない如く見受けられもする。彼らは最早や油絵芸術を骨董品《こっとうひん》と見なしているのかも知れない。そしてアメリカ人は、支那の古美術と古画と浮世絵を以《もっ》て彼らの美術館を飾ると同じ心を以てパリの近代絵画の信用あるものを選んで買い込んでいる。先ず最も新らしい、現代らしい頭のいいやり口だといえばいえる。しかしながら万事金の力で不足を補う処の何だか下等にして憎さげな態度はしゃくにさわるけれども、アメリカという国は急に衰微するとは思えない。
とにかく、政府や富豪の力で保護しなければ衰えそうな芸術は、何んと霊薬を飲ませて見た処で辛《かろ》うじてこの世に止《とど》め得るに過ぎなくなるにきまっている。従ってその最盛期におけるだけの名人名工はその末世にあっては再び現われるものでない。ところで油絵芸術はまだ末世でもあるまいと私の職業柄いっておかなければ都合が悪いけれども、本当の事は、私にはわからない。
B
この間、私が見た芝居では、天王寺屋兵助という盲目の男が五十両の金|故《ゆえ》に妻を奪われ、自分は殺され、まだその他にも人死にの惨事が出来上《できあがっ》たようだった。全く人間の生命も金に見積るとセッターや、セファード、テリヤよりも案外安値なものである。
絵描き貧乏と金言にもある通り、その一生といってもこれは主として私の一生の事だが、それを金に換算すると随分安い方に属していると思う。
酒は飲めず、遊蕩《ゆうとう》の志は備わっているが体力微弱である私は、先ず幸福に対する費用といえば、すこぶる僅少《きんしょう》で足りる訳である。たとえば散歩の時カフェー代と多少のタクシと活動写真観覧費とレストウランと定食代位のものかと考える。職業柄の材料費というものは案外素人の考えるほどにはかからぬものである。
またさように資本をこの方面につぎ込んで見た処で、その多量な生産を誰れが待っているという訳のものでは更にない。徒《いたず》らに押入れの狭さを感じるわけである。
先ず一年のうちに四、五枚の点数がそろえば秋の二科へ出すだけの事である。そして仲間うちの者たちのために、いいとか悪いとか、いわれてしまえば用は足る都合になっている。ほめられたからといって、どう生活がよくなる訳でもなく、悪口されたといって失職するものでもない。
やがて秋の季節が終りを告げる時、額縁代と運送費を支払えば一年の行事は終る。先ずこれ位の事が辛うじて順調に繰返し得るものは幸福だという事になっている。
宗右衛門町のあるお茶屋では、一ケ月千円以上の支払あるお客への勘定書《かんじょうがき》には旦那《だんな》の頭へ御の一字をつけ足して何某御旦那様と書く事になっている。その御旦那様の遊興費にくらべても画家の生涯はばかばかしくも安値である。
一台の機関車、一台の電車、一台のバスキャデラク、飛行機を見てさえも、これは俺《おれ》の一生よりも少し高い、これは絵描き何人分の生活だ、という浅間《あさま》しき事を考えて見たりする。たまたまわれわれの一生よりも安価な品物や、天王寺屋兵助を見るに及んで何となき愛情を私は感じる。
もしも、人間としての体格が立派で、生活力が猛烈で、人間の味《あじわ》い得るあらゆる幸福は味って置きたいという、そして大和魂《やまとだましい》というものを認め得ない処の近代的にして聡明《そうめい》な絵描きがあったとしたら、絵画の道位その人にとって古ぼけた邪道はないかも知れない。
C
私は最近、二科の会場でパリ以来|久方《ひさかた》ぶりの東郷青児《とうごうせいじ》君に出会った、私は東郷君の芸術とその風貌《ふうぼう》姿態とがすこぶるよく密着している事を思う。なお特に私は彼自身の風貌に特異な興味を感じている。そしてそれは、最も近代的にして、色の黒い、そして何処《どこ》かに悪の分子を備えている処の色男である事だ。私はあれだけの体躯《たいく》と風貌と悪とハイカラさと、芸術とを持ち合せながら本人の出演を少しも要求しない処の絵画芸術に滞在している事を甚だ惜んで見た。甚だ御世話な事ではあるがと思っていたが。
D
私は絵を描く事以外の余興としてはスポーツに関する一切の事、酒と煙草《たばこ》と、麻雀《マージャン》と将棋と、カルタと食物と、あらゆる事に心からの興味が持てない。ところでただ一つ、何故か気にかかるものは活動写真である。それで、映画は散歩のついでに時々眺める事にしている。近来、日本製のものがかなり発達したという話だが、私は以前二、三の日本映画を見て心に恥入ってしまってから、まだ当分のうち決して見ない事にしている。
しかし、その西洋のものといえども、私の健忘症は見たものを次から次へと忘れて行くが、私はアドルフマンジュという役者を忘れ得ない。私は彼のフィルムは昔からなるべく見落とさぬように心がけている。
私は彼が「パリの女性」に出て成功した以前、随分古くから至極つまらぬ役において、現われているのをしばしば見た。随分|嫌味《いやみ》な奴だと思っていたが、また現れればいいと思うようになり、その嫌味な奴が出て来ないと淋しいという事になって来た、幸いにも彼は出世してくれたので、私は遠慮なく彼の嫌味に接する事が出来る事は私の幸いである。
も一つ、私は欧洲大戦以前、チャップリン出現以前における、パリパテー会社の喜劇俳優、マックスランデーを非常に好んでいた。私はかなり、むさぼる如く彼のフィルムを眺めたものだった。彼の好みは上品で、フランス人で、色男で、そして女に関する上品な仕事がうまかった。その点マンジュに共通した点がある。
ところが欧洲の大戦によって彼の姿を見失って、チャップリンの飛廻るものこれに代った。
その後、ふと私はパリでマックスが復活せる力作を見るを得て、私は心の底から笑いを楽しむ事が出来た。最後に、私は日本で、彼の「三笑士」を見たが、間もなく彼は死んでしまった。多分それは自殺だと記憶する。
とかく生かしておきたい者は死んで行く。
構図の話
構図は絵を作る上においてもっとも重大な仕事である。自然を写すことは絵の第一の仕事ではあるけれども、自然そのものはすこぶる偶然なものであり、すこぶる無頓着に配列されているものである。
そこでその偶然と無頓着な自然全部を、無選択に一枚の限られた画面へ盛ることは出来ない。そこでその現そうとする画面へ、その自然のどれだけを都合よく切り取り、どんな具合に配置すれば形もよく、見てすこぶる愉快であろうかを考えなくてはならない。そこでまずわれわれは自然に向かうと同時に構図を考えなくてはならないのである。
ところでその無頓着である自然は、また自然と偶然と無頓着とによって、すでに複雑にして美しい無数の構図をこの地球の上に構成しているといっていいと思う。われわれ画家はその自然が構成する構図のすこぶるよろしき一部分を小さな自分の画面へ切り取って頂戴すればいいのである。その切り取り方と画面への配置の方法が問題である。まず初学者としてはこの方法によって画面の構図を定め、しかる後はただ写実であると思う。
それ以上初学者が構図ばかりを気にかけ、構図のために構図をするようであってはかえって面白くないと思う。一草一木さえ写す技能なしにいたずらに画面の構図ばかりを気に病んで、勝手気ままに自然を組みかえてみたり樹木をかえたりすることは、人間の顔が気に入らないからといって口を目の上へおきかえる位の間違いを起こすおそれがある。
これは絵の構図ではないが、人間もまた偶然に出来た自然物ではあるが、その生きるという必要上、種々雑多の諸道具類が実に都合よく完全に備わり、格好よく構成されているようである。それでもわれわれはかなりうるさく、あれは美人だとか、拙い面だとか、可愛いとかヴァレンチーノだとか勝手な批評をするのが常である。これも偶然に出来たところの構図を、いいとか悪いとかいって批評するわけである。
人間は、神様が作ったといわれている人間の顔でさえ左様に文句を並べて、少しでもいい構図を求めようとするのである。よい構図は人の心を愉快にし、安心、安定を得さしめるものである。
そんなに人間は、人間の面の批評をするが、まず大体において、人間の構成はよく出来ているものであると私は思う。もし人間をわれわれがはじめて造り出さねばならないものだったら、その組立てについては随分まごつくことだろうと思う。そして案外不便でかつ、可笑しな形のものを作り上げて笑われるかも知れない。
まずいろいろと文句はいうがその目鼻を移動させることはかなりの危険が伴うからやらない方が安全であると私は思う。そして充分自然を愛し、自然に頼ることが安全だと思う。自然は無頓着であるからしたがって千差万別である。一つとして同じものが作られていない。ところで人間のやる仕事は、何に限らず事を一定したがっていけない。今や人の顔はヴァレンチーノが流行だといえば皆ヴァレンチーノとしてしまうかもしれない。だから人間を作ることを人間に任せておいては同じ型ばかり作りたがる故に危険である。結局一平凡なる無数の顔が製造されて、人間は退屈してしまわなければならない不幸が現れる。
私はしたがって変化ある面白い構図は、自然をよく観察し自然にしたがってよき選択をするところから生じて来るものであると考える。
今一枚の風景画を作ろうとする。一○号というカン※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]スを持ち出す。自然の全体を一○号へ全部残りなく描き込んでしまうことは人間わざでは出来ない。われわれは自然のごく一部分を、この一○号という天地へ切り取って嵌め込まなければならないのである。
ここで自然の中から、自分が見て愉快であるところの図柄を探し出す必要が起こって来る。すなわち構図で苦労することになるのである。
例えば富士山と雲と、樹木と人家と岩とが画面の中央において縦の一直線となって重なり合ったとしたら、いかにも図柄が変だと、誰の心にも感じられるのである。こんな場合画家は歩けるだけ歩きまわって、富士山と樹木と雲と人家と岩とが何とか相互によろしき配置を保つように見える場所を探さねばならないのである。
またあるいは、画面の中央において横の一直線へ山と人家といったものが並列しても可笑しなものである。
また同じ距離の辺りに、同じ高さの木と家と人と山とが横様に並び空と地面がだだ広く空いているということも不安定である。
こんな場合、風景の中を選択のために走り廻ることが面倒臭いからといって、いい加減のところへいい加減の木を付け足してみたり、でたらめの人物を描き添えてみたりする人もあるが、これはよほど熟達した人でない限りは大変危険である。人間の顔の道具を勝手に置きかえて化物とするようなものである。私はどこまでも自然の構成そのものからよき構図を発見してカン※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]スへ入れるということが、一番安全であると思う。
それではよき構図とはどんなものかというのに、それは一概にもいえないが、大体それは人間の五体が美しい釣合を保っている如くうまい釣合が一つの画面に保たれることがよろしいのである。
まず人間の五体を見るのに、その顔においては、左右に均しい眼がある。ただ眼が二つ左右にあるだけは喧嘩別れのようでいけない
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