に過ぎなかったのである。
8 新技法と日本人
我国では、古来より単化と省略とを眼目とする処の、線によって直ちに心を現し得る処の、最も主観的な画技を以て悠々《ゆうゆう》自適しながら楽しんで来たものであった。勿論《もちろん》その技法の原因は支那より伝来せる技法と精神ではあったようだがともかくも長い年月において、独立した自由な日本らしき芸術様式を創造して来たものである。
もしも、西洋というものが、我が日本国の前へ立ち現われてさえくれなかったならば、この私たちの国は見渡す限りの美しき木造建築と、土と瓦《かわら》と障子と、鈴虫と、風鈴と落語、清元《きよもと》、歌舞伎《かぶき》、浄るり、による結構な文明、筋の通った明らかなる一つの単位の上に立つ処の文明を今もなお続けている訳であったかも知れない。
ところが、私たちが生れる少し以前において、既に本当の生《き》一本の日本文化は消滅しかかっていたのである。それは伊太利《イタリア》の文明がフランスへ渡りドイツへ影響するという具合とは全く別である処の、全く単位を異にする処の、文明によって日本は蔽《おお》われてしまったのである。
さて、こ
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