オーやピカソ的素描を、直ちに石膏や人体に向って試みようとするのをしばしば見る事がある。あるいは直ちに一切の写実を飛越えて、構成的素描や、油絵を制作するのがある。それも結構ではあるが、あまりに芸術の奥儀にまで一足飛びに飛び過ぎているものというべきである。
日本へ渡来する西洋のいい絵や立派な素描の多くは、その諸大家の学生時代の習作では決してないので、それは雪舟の山水の如く鳥獣戯画の如く、素描それ自身がすでに充分完全な芸術作品となり切ったものなのである。
即ちそれらは肥料でなく花であり実である処のものである。
それらの花や実を結ぶ以前において、如何に多年の手数と肥料が施されているかという事を承知しなくてはならないと思う。
米のなる木をまだ知らぬという俗謡がある。日本にいると、全く米のなる木を知らずに過している事が多いのは頗る危険な事である。
素描、油絵、あらゆる西洋芸術は、すべて花となり切って渡来する。その花を見て直ちにその模製を試みる事は、庭の土から直ちにライスカレーを採集して以って昼めしにあり付こうとする考えである。
短気は損気という言葉もある。ホルバインの素描における一本の
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