大競技場となり漫歩の背景となりつつあるが為めにこの常設館のイルミネーションの中で完成されたる滋味ある宝玉も同居するのだから、甚だそれはねぼけた存在と見え勝ちである。玉から云えば他の作品はポスターでありポスターから云えば玉はねぼけた存在であると云う。又そう云う処に若い心が発散するのである。然し若き尖端は永久に尖端ではあり得ない。やがて今の尖端人は又玉を製造する日が来る。そして次の尖端の邪魔をする訳である。
 私は芸術家が宝玉と化けた時、これを何か適当な陳列棚へ集めて、尖端の大競争場裡から救い上げて見度いと思う。でないと、全く球場に埋まる老いたる玉が気の毒であり、芸術の完成を萎びさせていけないと思う。尖端と元気のみが芸術だとは云えないから。

   かげひなた漫談

 東洋画には陰影がない。強いて凹みを作らねばならぬ時には淡墨をもって隈というものをつける。これは単に凹んだ場所をやや暗くするだけのものであって、その隈どりの方向によってこの世の太陽が今どちらに存在するかといったことは一切わからない。この現実の太陽光線とは一向無関係であるところのたんなる凹みであるに過ぎない。
 ところが西洋画に
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