運動が円滑を欠いても絵を描くに不自由は更にないのである。多少円滑を欠く位いの方が、絵の表情はがっしりとして、かえっていいかも知れない位いのものである。三年や四年間絵を休んでも別に絵は拙くなるものでは更にない。
 大切な事は心の問題である。先ず心が定まって後、普通の人間の知るべき事は知って後、如何にも絵が描きたくてたまらなければゆるゆると始めて、決して遅いものではないと思う。私の方へ時々、母親が子供をつれて相談に来る事がある。中学を嫌がって絵ばかり描きたがるので勿論成績もよくなく身体も弱いから一層の事画家としてしまいたいというのである。私はそんな場合、なるべくならその事はいけないと止めるのである。せめて中学校だけは卒業させるように勧めて置くのである。絵の技法を本当に学ぶには早過ぎて困るのである。
 もし、この時期にわけのわからない技法が沁《し》み込んだとしたら第二の天性ともなる事がある。うっかりと乗り込んだ乗り物である。西向きか東向きか知らずに乗込んだ汽車である。気がついた時、汽車は地獄へ向って走っている。
 技法は心を第一としなければならぬ。心定って後の乗物である。神戸へ行くには必ず西向きの汽車を撰択すべきものである。
 何んといっても相当の人としての心定まった上自分自身方向を定める資格が出来た上、自分の心の方向に従い足を進める必要がある。
 ところで足を進める事はどんな方法によって進めるのかというと、先ず昔は、心の用意も人間としてまだ出来ていなくとも、十二、三歳の神様時代から丁度琴や三味線のお稽古《けいこ》と同じように、ある先生につかしめたものだ。先生は画法という定った一巻を頭へしまい込んでいる。それを一つ一つ授けて行くのだ。何はともあれ無意識にそれを稽古してさえ行けば、いつかは何んとかなる事だろうという迷信によって進んで行くのだが、しかしながら、昔の先生でも何んとなく心定まらない子供のうちは技法を授ける事は無益で便りないと感じたものと見え、西洋にあっては弟子《でし》たちは先ず年期奉公というものをやらされ、その間においては一向に絵らしいものを描かしてもらう事は出来ない。ただ絵具を油で練って見たりその他雑役をするだけの事であったらしい。
 日本でも同じ事で年若くして弟子入りすると先ず拭《ふ》き掃除《そうじ》をやらされる位いの事である。
 先生の絵具を溶かせてもらうまでに至る事は随分の辛棒《しんぼう》が必要だった事である。勿論昔は絵具の練り方作り方が一つの修業でもあり、画家の職責でもあった。
 日本画も絵具の溶き方においてとても六つかしい秘伝さえある様子である。
 ところが近代にあっては、絵具は専門の会社において科学的に製造される事となってしまったため、画家はただそれを使用さえすればよいのである。画家の修業におけるかなり重大な部分が、引離されてしまった訳である。
 画家はただ自分の本当の仕事だけをやればよい事となってしまった。勿論日本画家のあるものは今もなお絵具の溶き方にかなりの修練をやっているようであるが。
 従って今もし画家の家へ年期奉公をしたとすれば雑役以外にする仕事がない。
 この点からいって、今の時代では入門に先き立って人の心を養って置く方が得策だ。それには丁度|幸《さいわい》な事に普通学というものがある。
 それから、昔は西洋でも日本でも先生各自の流派というものが非常に重《おもん》じられ、心そのものよりも画法というものを重大に考えた。
 その画法には秘伝があり、描くべきものには必ず厳格な順序がありその軌道に従って描くのである。その法軌から離れた事、勝手な事をすれば破門されるおそれがある。
 従ってその方則を習うだけでもかなりの年数がかかる訳であった。従ってかなりの子供のうちから稽古しなくては到底充分の修業が出来ない事だったらしい。
 一人前の心を持った大人となると自分の心が自分に見えて来る。そこで柔順に先生の方則、流派の型など馬鹿々々しい仕事を習得してはいられない。そこで何もわからぬ子供時代においてあらゆる馬鹿々々しい仕事を習練させたものでもある。
 ある流派、先生の型、をうけ継ぎ受け継いだ結果生き生きとした画人が西洋でも日本でも出なくなり、世の中が人間の心は、即ち画人の心は、心にもない方向へ方向のわからぬ乗物によって引きずられた結果、生き生きとした画人が西洋でも日本でもすっかり出なくなり世の中が萎《しな》びかかって来たものである。そして十九世紀の終りから二十世紀の初めにおいて非常な勢となって近代の自由な明るい気ままな人間の心を主とした処の画の方則が現れ出したのである。
 それは飽き飽きした結果誰れいうとなく現れ出した人間の本音である。
 即ち近代の絵の技法は人間の本音から出発しなくては面白くないのである。
 本心本
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