いるという絵である事は確かである。
しかしながら、銘刀は祟《たた》りをなすという事がある。それは銘刀の所有者が低能者であったからである。百人の低能者が最新の軍艦へ乗り込んだとしたら、その威力を充分我が海軍のために発揚し得るかどうか、うたがわしい。
われわれはそれがために軍艦を呪《のろ》い、銘刀を捨てる必要はない。何もかもが人間それ自身の問題ではある。素描や厳格な写実が人を殺す場合はあるかも知れないけれども、それは殺された人が弱かったためである。それ位の弱者は早いうちに殺されて置く方が自他共に幸福であるかも知れない。
しかしながら、人はなかなか容易に死に切れるものではない。画技の下敷となり半死半生の姿を以て、しかもそれに馴《な》れ切って平然と生きている処の大勢があるものである。そして形だけは整頓した処の、例えば甲冑《かっちゅう》を着けたる五月人形が飾り棚の上に坐っている次第である。かかる者を総称して近代の若い人たちはただ何んとなく、アカデミックという風の名称を捧《ささ》げているように思う。
石橋を叩《たた》いてばかりいて決して渡り得ない臆病者と石橋を叩く事ばかりに興味を覚えて渡る事を忘れてしまうものとがある。あるいは決して叩かずに渡る勇者がある。しかしながら石橋でさえも叩いて置く方が間違いはないようである。然《しか》る後、渡る事だけは決して忘れてはならない。
私は、以上述べた処の素描、及び人体写生を以て画技における基礎工事と考えるのである。これらの仕事を充分に研究する事は即ち石橋を叩く作業であろう。
然る後において、画家は、好む処、心の趣《おもむ》く処に従い、風景、静物、人体、その他あらゆるこの世の万象を描く事において絶対の自由と気ままとが許されているはずである。
私は以上油絵の基礎について述べて見たのである。それは甚だ不完全な説明であったが、ともかく、素描と人体研究とは油絵を描くものにとっては、充分経験しなくてはならぬ処の義務教育である事を知ってほしい。と同時にそれは画家の生涯に附き纏う処の画道の骨子であり、それによって画家は自然の組織と絵画の組織を発見もし、技法の秘密をも探究する事を得るのである。
この修業を怠《おこた》るものは一時の器用と才気から何か目新しいものを作る事が出来るとしても、それは本当に成長すべき運命を持たないであろう。月不足の嬰児《えいじ》の如く。
小児の傑作が長ずるに従って消滅するのも子供は絵画の組織を持たないからであるといっていい。
6 近代の心と油絵の組織
油絵というものが西洋に生れ、西洋人の要求と生活から湧《わ》き出してから古き歴史を持ち、やがて素晴らしい時代が来、大天才が輩出し、その時代時代において花を咲かせ実を結び、あらゆる人間の要求によって、あらゆる画風を生じ傑作を無数に残し、その技法は完全に研究され絵画の組織は充分に備《そなわ》り過ぎる位いに備ったのである。故に油絵技法とその組織というものは、私の考えによると、十六世紀の時代においてその全盛期であり、油絵技法の最頂点を示し、その時代と人間の生活との親密にして必然の要求による結合と、無理のない発達の極度にまで達しているものであると思う。
それ以後の西洋にあっては、伊太利《イタリア》、フランスの別なく、油絵芸術は習慣と惰性とによって、ともかくも連続はしていた訳であるが睡気《ねむけ》を催すべき性質のものとなり、芸術としての価値は下向して来た事は歴史に見てもその作品に見ても明《あきら》かである。
私は、ここに西洋絵画史を述べる暇と用意を持たないが、ともかくも、私は油絵具という材料とその形式で以てする芸術の限界においては、再び、レオナルドや、ルーベンス、レンブラント、ドラクロア、ヴェラスケス、ゴヤ等の仕事に比すべき位いの、材料と人間の生活と、技法と画家の心とが無理もなく完全に結び付き、壮大なものを生むべき時代はおそらく来まいと考えるのである。
あの重たく、厚く、深く、大きく、堅固で悠長《ゆうちょう》で壮大で、真実で、華麗で、油絵の組織の完備する点で、また油絵具の性状が完全に生かされている点において、私は油絵具のなさるべき、頂点の仕事が已《す》でにその時代において為《な》し尽されているように思えてならないのである。
極端な事をいえば油絵の技法は最早や大昔において、役に立ってしまった処の芸術形式であるといっても差支えないかも知れない処のものである。そして近代以後の人間世界の要求からは、多少とも不合理な材料であると思われ来るべき運命をさえ、持っていはしないかとひそかに私は疑うのである。
如何に面白い日本音楽であったとしても、近代日本女性の複雑な恋愛が新内《しんない》によって表現される訳には行き難いし、われわれの悲しみ
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