要するに、よくこの世界を了解するという事は、よく観察しよく写実しなければ油絵は成立って行き難いものである。
 そこで油絵技法の基礎工事としてその写実の研究方法として、一般に行われている確実な方法というのは即ち素描(デッサン)をやる事である。
 しかしながら、素描と一口にいっても、その範囲は頗《すこぶ》る広いものである。例えばコンテーを以《もっ》て描かれたもの、あるいは木炭、ペン、毛筆等で描かれたもの、あるいは一切の色彩を交えない線描の絵の一切を素描という事も出来る。あるいは日本絵の下絵や鳥羽僧正《とばそうじょう》の鳥獣戯画やその他|雪舟《せっしゅう》の破墨《はぼく》山水に到《いた》るまでも素描といえばいえるものである。
 しかし、ここでいう処の油絵の基礎としての素描、デッサンは、油絵の基礎工事としてのものであって、即ち、木炭紙の上へ木炭を以って、石膏《せっこう》の胸像あるいは生きた人体を写生し、その形態、平面、立体、凸凹、明暗の調子等の有様を研究し表現する処の仕事をいうのである。
 初学の人たちがその考えだけは立派な芸術的な考えを以って、いろいろの展覧会や画集において見た処のマチスやルオーやピカソ的素描を、直ちに石膏や人体に向って試みようとするのをしばしば見る事がある。あるいは直ちに一切の写実を飛越えて、構成的素描や、油絵を制作するのがある。それも結構ではあるが、あまりに芸術の奥儀にまで一足飛びに飛び過ぎているものというべきである。
 日本へ渡来する西洋のいい絵や立派な素描の多くは、その諸大家の学生時代の習作では決してないので、それは雪舟の山水の如く鳥獣戯画の如く、素描それ自身がすでに充分完全な芸術作品となり切ったものなのである。
 即ちそれらは肥料でなく花であり実である処のものである。
 それらの花や実を結ぶ以前において、如何に多年の手数と肥料が施されているかという事を承知しなくてはならないと思う。
 米のなる木をまだ知らぬという俗謡がある。日本にいると、全く米のなる木を知らずに過している事が多いのは頗る危険な事である。
 素描、油絵、あらゆる西洋芸術は、すべて花となり切って渡来する。その花を見て直ちにその模製を試みる事は、庭の土から直ちにライスカレーを採集して以って昼めしにあり付こうとする考えである。
 短気は損気という言葉もある。ホルバインの素描における一本の線あるいはマチスの極端に省略された一条の線の裏には、どれだけ捨て去られた多数の線が存在しているかを知らねばならない。
 そこで、私は絵の基礎的工事ともなり、肥料ともなるべき充分の科学的な素描の仕事をする事を勧めるのである。即ち絵画芸術の奥儀にまで飛ぶ事をしばらく断念して、出来得るかぎりの正確さにおいて、石膏あるいは人体の実在をよく写実する事である。そして自然の構造とあらゆる条件を認識すべきものである。
 ところで私は正直にいうと、この素描即ちデッサンの勉強というものは、個人が勝手に、家にあって習得する事の頗る困難なものなのである。何故なら、石膏像を忠実に写そうとしても最初の人にとっては、その正確な形、その明暗の調子や光の階段を本当に認める事が容易な事ではないのである。それから石膏像の種類を個人としてはさように数多く設備する訳にも行かないので一つの胸像を毎日描いていると飽きてしまって興味が続くものではない。それでなくともデッサンは、かなり無興味な仕事と考えられやすいのである。
 それから、石膏よりもなお一歩進んで人体の素描に及ぶと、なおさら毎日々々モデルを個人で雇う事も随分の贅沢《ぜいたく》であり、永続きのしない事である。
 そこで本当に勉強しようとすれば、何んといっても、大勢の画家が集って、各々がお互に眺め合い、せり合い揉《も》み合ってグングンと進んで行くのがよい方法である。
 それは、私自身の経験に見ても、昔、白馬会《はくばかい》の研究所でおよそ一ケ年と、美校の二年間のデッサン生活において、先生の指導も結構に違いはなかったが、お互の競争心理が、絵を進ましめる事に非常な力があった事は確かである。
 そこで私は普通学の勉強時代やアマツールとしての時代がすみ次第に本当に絵をやろうとするにはやはり美校あるいは相当の研究所へ通う事が最も適当な方法であろうと考える。

 素描の方法について
 話の順序として、ここに極く概略のデッサンとしての木炭画の方法の概略を述べて置こうと思う。

 デッサンの準備
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木炭(西洋木炭)
木炭紙
カルトン(紙|挟《ばさ》みであり画板《がばん》であるもの)
クリップ 二個(紙を抑《おさ》える)
フィキザチーフ Fixatif(仕上った画を定着する液)
吹き器(フィキザチーフを画面へ吹きつける)
食パン(食パンの軟《やわらか》
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