二百号、三百号とどれ位いでも大きく描く事も出来、又その材料が、それだけの味を充分受け持つ力のある材料であるのです。処で水彩は、もう二十五号以上にもなると、材料に無理が起って不愉快になります。水彩と云う材料は、そんな大ものを引受ける力がありません。何んとしても小品の味であります。
 ガラス絵は特に、大ものはいけない様であります。第一馬鹿に大きいガラスと云うものが、人に何時破れるかも知れぬと云う不安を与えていけません。
 それから、次へ次へと絵具を重ねることが出来ないものですから、勢い画面が単調になります。筆触もなければ絵具の厚みもない、ここで不安と単調が重なるものですから、どうしても不愉快が起らざるを得ません。
 そんなわけで、大体に於てガラス絵の大作と云うものは、昔しから尠ない様です。日本製の風景画などに、よく三十号位いもあるのがありますが、それは大変面白くないもので、怠屈な下等な感じのするものであります。何んといってもガラス絵は、小品に限ります。Miniature の味です。小さなガラスを透して来る宝石のような心もちのする色の輝きです。宝石なども小さいから貴く好ましいのですが、石炭の様に、ごろごろ道端に転がって居れば、馬の糞と大して変りは無いでしょう。
 私の考えでは、ガラス絵として最も好ましい大きさは、二三寸四方から五寸位い、と思います。私は三号以上のものを描いた事はありません。
 ここに、作画の上に注意すべき事は、何しろ左様に小さい作品である上に、殆んど想像で仕上げるものでありますから、例えば子供の肖像を描く場合、それは下絵として充分正確な素描も必要であって、芸術として厳重な考えを持って、やらなくてはいけません。どうかしてそれが、子供雑誌とか、婦人雑誌などの、甚だセンチメンタルな玩具となって了う事も怖れねばならないのであります。
 要するにガラス絵と云っても、少しも他の油絵や、水彩と変わりなく充分の写実力を養って後ちでないと面白い芸術品は出来ないでしょう。
 食物で云えばガラス絵などは、間食の如きものでしょう。間食で生命を繋ぐ事は六つかしい。米で常に腹を養って置かなくてはなりません。
 その上ガラス絵は大体に於て趣味的な仕事ですから、あまりに変なガラス絵のみに熱中し、油絵を忘れて製作していると多少鼻もちならぬ趣味臭さを発散して不愉快ですから、これも亦間食として
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