し、どうしたら新式の絵が素人にも一朝にして描き得るかという便利な話がこの世に本当に存在するとは私には信じられない。もっとも一週間速成油絵講習会といった風の事を企てる香具師《やし》もあるだろうけれども、先ず正直な処さような話し位い莫迦《ばか》々々しいものはない。
 恋愛は横町のカフェー何々の彼女となすべし、その技法は斯々《かくかく》と教えられて早速取りかかってはあまり素晴しく成功する見込みはなさそうに思われる。
 それで私は主として近代の油絵の技法に対する心構えに関して多く喋《しゃべ》って見たつもりである。

   ガラス絵雑考

 私は、ガラスというものについて特殊な愛着を持っている。ガラスでさえあれば何んだっていい。上等の古いカットグラスから氷屋のコップ、写真のレンズ、虫めがねにいたるまで同じ程度において愛着を感じ、ことに色ガラスの色感くらい私を陶酔させるものはない。安物の指輪の赤いガラス玉、支那めし屋の障子に嵌め込まれたる色ガラス、暗の夜に輝くシグナルの青と赤など、ことに私はその青色により多くの陶酔を覚える。何か心不安なる折、何かが癪に障る時、苛々する時このシグナルの青色の光を眺めると一時この世の何物をも忘れ去ることができる。それは私にとってのカルモチンである。
 昔の散髪屋とか湯屋の装飾品としての懸け額に日本名勝風景などの類や役者の似顔や、美人、いなせな男が絞りの手拭を肩に掛けたる肖像等を浮世絵末期的手法によって、これもまたガラスへ描かれてあるのを私は見た。あるいは手箱の表の装飾として美人のガラス絵が嵌め込まれているのも昔は多かった。私は子供の時からそのガラスに描かれてあるところの不思議な光沢と色感の魅惑に迷わされがちだった。
 だいたいガラス絵(ビードロ絵ともいわれている)というものはガラスの裏といってもガラスに表裏はないようだが、ともかく、ガラスの一方から絵を描いて、その裏側へ絵の答を表していく技術なのである。普通の絵のごとく表から観賞するのではない。ガラスへ塗った色彩をその裏側から見ると絵具の面の反対がことごとくガラスに吸収されてまったく色ガラスを見るのと同じ効果を表す。
 昔、話はちがうがガラス写しの写真というものがあった。あれは色彩がなく、単に白と黒との調子のものであるが、しかしちょうどガラス絵と同じ仕事を写真でやったものである。
 古きガラス写しの
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