こっけい》に外ならない。
 殊に近代におけるある種の描法、例えばヴラマンクの如き風のものは一気に答にまで迫る処の気合術ともいえる。先生は徒《いたず》らに気合をかけても誰れ一人としてその気に打たれるものなき時まことにまた悲しくも憐《あわ》れである。
 空腹なる先生の気合術は徒らなる努力である。先ず飯を食べてからの気合術であらねばならぬ。気合術に限らず、いつの時代にあっても、絵画の仕事は、空腹者が直ちに写実を軽蔑《けいべつ》して画室に籠《こも》ったとしたら、それは悲惨なる結果を表すであろう。先ず順序として、そっとそのまま捨てて置けばそれでいい、自ら餓死して行くにきまっている。
 要するに新らしき何物かを創造せんとするものは、それはカンヴァスの作り方でも絵の具の並べ方でも、パレットナイフの使用でも、褐色《かっしょく》の乱用でも黒の悪用でも何んでもない。それは人間の誰れよりも強い星の性格と、貪慾《どんよく》なる本能と、鋭き神経と、体力と而して最も秀《すぐ》れたる表現力を兼ね備えているものでなければならないと思う。そのどれかを欠いでいるものは、必ず多少の不運を感じるであろう。
 殊に、如何ほど、貪慾なる本能はあっても表現の才能なき画家の幕切れは悲しいと同時に、表現力のみあってよき神経と強き星を欠く処の画家は、商業美術と看板へその方向を転換する機会が最も多く与えられ、またその事によって世のために働き得るものであろうと思う。なおその上に近代の人間にとっての特別なる生活の重荷はまた画家の才能と星の強さと、その貪慾をどれ位いの程度に歪《ゆが》めつつあるかを思い、近代における画家の仕事のいよいよ複雑なる困難さを私は考える。
 従って近代の画家は基礎的な仕事は大切と思いながらも、ついせっかち[#「せっかち」に傍点]となり、つい空腹のまま飛び出して手軽な大作を乱造せんとする傾向も認められる。大体において近代の技法が甚だせっかち[#「せっかち」に傍点]にして粗雑で、ちょっと見た時大変立派で、暫《しばら》く見ていると穴だらけのガタ普請《ぶしん》であり、味なき世界を呈しがちである事は近代技法の悪の半面でもあろう。

     10 近代の生活と新技法

 近代の一般の傾向を見るに活動写真はその映画館で悉《ことごと》くの封切を鑑賞し、お料理法と趣味講座と英語と体操はラジオで勉強し、野球は夏の大仕合
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