のマチス、ドラン、キッスリング、ディュフィ等もまたかかる傾向による技法を行いつつある人たちだと思う。
なおルオー、シャガール、ピカソ、キリコ等のものになると、もう殆《ほとん》ど制作に対しては自然の前には決して立たないであろうとさえ感じられる。それは悉《ことごと》く心の働きがその大部分を占領してしまっている。
しかしながら、ただ注意すべき事は、ピカソ、ルオー等、皆あらゆる古き画風と技法の卒業者であり、また、彼らの絵には不思議に強き立体感と現実性を備えている事である。この現実性の強き存在と、その不思議なる立体感なき心の簡単なる超自然の超現実的亡霊などはあまりにも莫迦莫迦《ばかばか》しき童謡であり童話であるに過ぎない。日本で咲いた超現実派に時々このかよわき童謡の立看板を見る事も淋しい気のする事である。
要するに近代絵画は確実なる方程式を組み立て、かくの如く、あるいは右へあるいは左へ、黒く、白く、画家の心の動きに従って確実な形式の上に答が盛られて行く必要があると思う。ただ何んとなく答が出るのではない。答は直ちに確実なる予定通りに現れるという技法を近代の画家は取りつつあると思う。
そこで、近代の絵画は、かくありたいと予定すれば、自然の中から、それに適合するだけのものを汲《く》み出すのである。それ以外のものは、未練もなく捨て去る。必要なものを摘出して不必要なる多くのものを悉く省略してしまうのである。
ところで力ある作家は、複雑なる運算によって答に必要なものを吸収するが、頭の悪い作家は、あるいは基礎的工事を欠く処の作家は、必要なものまでも捨ててしまい、捨つるべきものを拾って見たり、結局画面は混雑してただ心の亡霊と自然の糟《かす》だけが画面に漂う。
要するに近代絵画の構成は鋭き心によって、自然を取捨選択し、自由に画の材料を駆使し、自然を変形し、気随なる気ままを確実なる基礎の上に立てなくてはならない。
先ず印象派風の描法は、どんなに画家の頭が曇っていても、下手でも素人でも、ただ自然に万事を依頼して描いているが故に、間違った処でそれは何かじめじめとした鬱陶《うっとう》しい平凡な写生画が現れるに過ぎないけれども、この近代の心を発揚したるはずの技法にして神経鈍き絵画の、その答の間違いたる間抜け面《づら》などは、そしてしかも平気ですましていたりしては、真《まこ》とに悲しい滑稽《
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