なおそれ以上の破格である処の伝統を抜き去ろうと努力した処の革命期の多くの絵画が侵入して素晴らしき発達を遂げたのである。
しかしながら、近代フランスの画家たちが求めた処の、技術の革命の眼目とする処は、単化と自由と、省略とプリミチーブと線と、素人らしさと稚拙と、野蛮とであったといっていいと思う。
日本人は求めずして既にそれらのものはあり余るほど、古来より心得、持参している処のものであったが故に、西洋の近代の絵画は、日本人にとっては真《まこ》とに学びやすい処の都合よきものであったのである。直ちに真似《まね》得る処の芸術様式である。西洋人は形をくずそうとして努力した。日本人はこれ以上くずしようのない形を描く事において妙を得ていたのである。
これは甚だ僥倖《ぎょうこう》な事で、他人の離縁状を使って新らしき妻君を得たようなものである。
しかしながら、何か日本人の絵には共通して紙の如く障子の如く、薄弱にして、浅はかにして、たよりない処のものが絵の根本に横《よこた》わっている事を昔から、日本人自身が感付いて来ている。そして誰れもが、相互の心に承知している処の欠点である。
私たちの仲間が集った時など、つい話がその問題に触れがちである。如何に拙《ま》ずい西洋人の絵にしてもが、かなりの日本人の絵の側へ置いて見ると絵の心の高低は別として日本人の絵は存在を失って軽く、淡く、たよりなく、幽霊の如く飛んで行く傾向がある。西洋人の絵には何かしら動かせない処の重みと油絵具の必然性が備わり、絵画の組織が整頓せるために骨格がある如くである。
最も主観的な様式である処の構成派や立体派あるいは未来派の作品においてすら、西洋人のものは殊《こと》に立体派においては、特にその立体に本当の立体が備り、空間が存在し複雑なリズムがあり、立体の種々相を眺め得るのである。
その側へ、同じ日本人の立体的作品を並べて見ると、日本人のものは立体らしい模様が描いてあるに過ぎず、よく視《み》ると立体でも何んでもない図案に見えて来るのである。
モネの海の絵を見た。画品も心も相当に高く美しいものであったが、われわれ東洋人はその絵に現われている処の海の本当の広さと地球の存在の確実さに驚かされるのである。
空の高さ断崖《だんがい》の大きさ地球の重さがある。モネの海はその地平線まで何|哩《マイル》かある。本当に船を走らす事が
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