に過ぎなかったのである。

     8 新技法と日本人

 我国では、古来より単化と省略とを眼目とする処の、線によって直ちに心を現し得る処の、最も主観的な画技を以て悠々《ゆうゆう》自適しながら楽しんで来たものであった。勿論《もちろん》その技法の原因は支那より伝来せる技法と精神ではあったようだがともかくも長い年月において、独立した自由な日本らしき芸術様式を創造して来たものである。
 もしも、西洋というものが、我が日本国の前へ立ち現われてさえくれなかったならば、この私たちの国は見渡す限りの美しき木造建築と、土と瓦《かわら》と障子と、鈴虫と、風鈴と落語、清元《きよもと》、歌舞伎《かぶき》、浄るり、による結構な文明、筋の通った明らかなる一つの単位の上に立つ処の文明を今もなお続けている訳であったかも知れない。
 ところが、私たちが生れる少し以前において、既に本当の生《き》一本の日本文化は消滅しかかっていたのである。それは伊太利《イタリア》の文明がフランスへ渡りドイツへ影響するという具合とは全く別である処の、全く単位を異にする処の、文明によって日本は蔽《おお》われてしまったのである。
 さて、この日本を蔽うて来た時の西洋の画風はといえば丁度西洋絵画が衰弱し切った頃のものであり、同時に西洋画が現代にまで漕《こ》ぎつけようとした処の努力やその苦悶の最中である処の画風であった。
 そこで日本人は、西洋人が十九世紀における芸術上の苦悶を本当に体験する事なく、ただ降って来た風雨をそのまま受けていたに過ぎないのである。即ち古い手法の残りと新しき技法の初めとが相前後して渡来した訳であった。
 もし、仮に、西洋において、新らしい芸術運動が起らず、古き伝統によるアカデミックがそのままに日本へ流れ込んで少しの変動もなかったとしたら、日本現在の油絵は、大《おおい》に趣きを異にしていたに違いない。明治の初めにおける高橋|由一《ゆいち》、川村清雄、あるいは原田直次郎等の絵を見ても如何に西洋の古格を模しているかがわかる。あの様式がそのまま日本で発達し成長していたならば、日本の洋画は随分ある意味において、かえって画法としては壮健な発達を成していたかも知れないと思う。
 ところで日本に発達した西洋画は原田氏以後の黒田|清輝《せいき》氏たちの将来せる処のフランス印象派によって本当に開発されたのであった。以来、
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