を同じ大きさにおいて一幅の中に収めてしまい、その間には雲煙、あるいは霞《かすみ》を棚引《たなび》かせて、その中間の幾十里の直接不必要な風景を抹殺《まっさつ》してしまう。観者はその雲煙のうちに幾十里を自ら忍びて、そこに地球の大きさを知るのである。従ってさような技法は、一幅の中にいろいろの物語や内容を現すに至極便利な方法である。絵巻物などが作られるのも無理のない技術である。あるいは風景の多種多様な情趣あるいは一幅の画面に四季の草花、花鳥に描くにも適している技術である。
 西洋画の場合では、さように観者の想像に委《ま》かせる事はあまりしない。画家が眼に映じた地球の奥行きをそのままに表現せんとする。だからこの点では日本画の自由にして百里の先きの人情風俗までも現し得る仕事に対しては頗《すこぶ》る不便不自由なものである。
 例えば風景の場合、西洋画にあっては近景に立てる樹木、家、石垣等が殆《ほと》んど画面を占領してしまい、百里の遠方は已《す》でに地平線という上の一点に集合している次第となってしまう。その遠方の人情を見ようとすれば望遠鏡の力によって漸《ようや》く発見し得る仕事である。
 さように百里の先きの遠き人情物語を現す事は出来ないけれども、その代り前面の樹木と枝が如何にも世界に確実に存在し、如何に光に輝き、樹木と家とが如何に都合よくあるか、画面にどんな線と、色彩とをそれらが与えるか、そのあらゆる実在の色彩、線、形、光、調子の集合が人間にどんな心を起させるかといった具合の仕事を現す。
 要するに眼に映じる自然のありのままの実在が如何に美しく、複雑に組立てられているかという事を現すのに適当な技法である。
 従って、従来の東洋画には実在感が尠《すくな》く、その代り非常に空想的で情趣に満ちているに反して、西洋画は陰影と立体が存在し、太陽の直接の影響による光が存在し、空気があり科学があり、実際と強き立体感が頑《がん》として控えているのだ。
 東洋画を天国とすると西洋画はこの世である。あるいは極楽と地獄の差があるかも知れない。
 ところでわれわれ近代の人間にとっては極楽の蓮華《れんげ》の上の昼寝よりは目《ま》のあたりに見る処の地獄の責苦《せめく》の方により多くの興味を覚えるのである。その事が如何にも私を油絵に誘惑した最大の原因でもある如く思える。

     4 素描(デッサン)

 
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