一様な域に到《いた》るものかも知れないが、芸術の材料とその技法の差によって、その芸術が発散する処の表情には歴然とした差別があるものである。一つの技法がその技法の限界を超《こ》えると、その技法はかえってよくならずに死滅してしまうものである。油絵には油絵だけが持つ生命があり表情がありその能力にも限界が備《そなわ》っている。油絵が万能|七《しち》りんの代用はしないはずだ。
一つの技術が世界|悉《ことごと》くの芸術の様式と内容の総《すべ》てを含んでしまうという技法は今までにまだ発見されていないようだ。
活動写真という進歩した便利至極の芸術でさえ活動写真だけが持つ味以上のものは出そうでない。三味線には三味線という材料に相当するだけの技法と世界が存在する。シネマにおけるダグラスの活躍に三味線の伴奏があったら多少変だろうしあまりに愉快は得られないであろう。
いつか、セロの如き三味線を考案した才人もあったようだが、どうもまだ新芸術の材料として一般に使用されているようにも聞かない。
西洋技法の表面を借用して六曲|屏風《びょうぶ》に用い、座敷を下手なパノラマ館としてしまった実例はかなり混乱の現代日本に多い例である。
私は昔、現代劇に、浄るりのチョボが現れたのを見た事があった。また、乃木《のぎ》大将伝を文楽座で人形浄るりとして演じた事があったと記憶する。前者においては愛子は涙の顔を上げて太夫が語ると愛子というハイカラな女は顔を持ち上げて泣き出した。
かかる例は極端な場合であるが、しかしこの極端が往々にして平然と今の時代の新工夫新様式として通用する事があるのである。この事はかなり重大な問題であるのでここにはっきりと尽す事は出来ないが、要するに西洋画と日本画との技法には、根本的に単位の違ったものが存在するという事を、いって置きたいのである。
大体東洋画の特色ともいうべきものは、絵に実際の奥行きのない事だといってもいいかと思う。その代り奥行きは間口の方へいくらでも延びて行く処の技法である。例えば家に奥行きを多く作る必要ある場合には土佐派にあっては家の屋根を打ち抜いて座敷を見せ、その中の事件を現すやり方である。あるいは南画の如く山の上へ山を描き、そのまた上に海を描き、その上になお遠き島を描く事である。
百里の距離を作るには日本画では、先ず近景を描き、中景を描き、而して百里の先き
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