さっぱりわからなかった。私はただ、私はわからないという、私の一番|上手《じょうず》なフランス語を繰返して置いた事を記憶する。
 以来、私はその事について、何もかも忘れてしまってもう四、五年にもなるが、最近私の書棚を掃除していた時、偶然にも、その折の写生帖が出て来たので、カニューの事を思い出しながら頁を繰っていると、ふとその時ジョセフィンが記した筆蹟が現れたので、彼奴《あいつ》は何をいったのかと思ってつくづくと読んで見ると、それは正《まさ》しく、私は心からあなたを愛するという意味の言葉であった。なるほどあの弱った表情は、なるほどと思い当った。今頃これがわかった[#「わかった」に傍点]のでは大変遅過ぎた。しかしながら、これはわからないので幸だった、もしそれが読めたら何んとか返事をしなくてはならないはずだ。私もあなたが好きだともいえないし、私は嫌《きらい》だといったら怒るかも知れないし、先ず一苦労せねばならない処だった。それにしても、愛するという文字が読めなかったとは、よほどの私は無学であったと考える。私は帰郷病に罹《かか》ったはずだ。



底本:「小出楢重随筆集」岩波文庫、岩波書店
  
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