其物が第一条件ともなってくるのである。処が現在の日本では左様に大きな建築との交渉が起る事が稀である為めに本当に構図其物を研究する事を画家が大変怠っている様である、従っていざ壁画と云う事になっては大にまごつくのである、拙い訳である。西洋では随分、日常、コムポジションをいろいろと勉強している様である。日本もどうせ油絵があらゆる建築との交渉を持ってくるのが本当であるとすれば画家はもっと構図を研究する必要があると思うが然し乍ら此事は初学者にとってはあまり関係のない事であるけれども。
酒と僧帽弁
私の心臓の弁膜には穴が一つ開いている。その穴から折角押し出したところの血液が多少もとへ逆流するらしいのだ。医者の方では、これを僧帽弁閉鎖不全というそうである。簡単にいうと出来損ねた心臓である。出来損じたものには幸いなことにも代償作用というものが営まれて、まずほそぼそとさえ生きていれば日常生活だけは何とかやって行けるものであるらしい。貧乏人のためには質屋が開店するようなものだろう。したがって私は毎日僧帽弁ばかり気にして暮してはいない。
ところがもし一朝事ある時において、私の心臓は困るのである。例えば近くの火事の如き、あるいは、かの大地震の如き場合、あるいは喧嘩口論、電車の飛び乗り戦争、熱病などがいけない。今や発車せんとする汽車を見ながらプラットフォームを急ぐ時の私の心は情けない。途中にブリッジでもあれば、乗れる汽車でも乗れなくなることがある。
私が有楽町の細い横丁の二階を借りていた頃、四、五軒さきの家から火が出たことがあった。その時、私はあらゆる人が狂気の如く走っている中を、私は猛烈な火の手を眺めながらブラブラと散歩の如く逃げ出したことを覚えている。皆が走っている時に、自分だけが歩いていると前から押され、後から突かれて、大変私が往来の邪魔になりつつあることを感じた。といってこんな場合、たんに驚いているだけでも私の心臓は充分であるのに、それ以上走るなどいうことはとうてい私の世帯が許さない芸当であった。
例の大地震の時なども、ちょうど私の泊っていた宿が白木屋の横丁であったから、もし宿にいて、地震の時刻が夜中ででもあったとしたら、随分私は辛い目に遇ったことかも知れない。ことによっては震火の中をうろうろと散歩しながら煙と化したかも知れない。
幸いにもあの日は二科の招待日であったから、上野公園というまず理想的な避難所に初めからいたために、私はただ驚いていさえすればそれでよかった。少しも走る必要がなかったのは結構だった。私は会場前の椅子へ腰をおろして、私のトランクが宿の六畳の間で黒煙に包まれているのを私の心眼という奴に照して遥かに眺めていたものであった。
そのトランクの中にはまだ作ってから二、三度以上も着たことのない洋服や、私がドイツで買ったところの愛用の写真機もあった。そのレンズが火焔で溶解している有様なども私は考えた。
そして、この大騒動、大混乱に遭遇しながら、少しも走らずにすむという運命は、何と幸せに恵まれた心臓だろうと思った。
ところで、このような異変や騒動がなければ、僧帽弁は常に安泰かというに、なかなかそうは行かない。あらゆる嬉しいことや幸福や遊戯でさえも、多少とも胸の躍るものばかりだといっていいかも知れない。概して幸福は心臓を昂進させる。
例えば、ふと紅の封筒が自分のポケットから飛び出したとしたら、忽ち血行は変調を来たすであろうし、電車の中で美人の視線といささか衝突してさえも、直ちに逆上して脈膊に影響を来たす位のものである。従ってそれ以上の幸福が飛び出したらまったく私の心臓は止まってしまうかも知れない。あまり結構な幸福が私を訪問しないのも、一重に神仏のお慈悲からかも知れないと思う。
心臓を昂進させるものに酒がある。結構なものであるそうだ。私は酒のみが羨ましくて堪らない。私も一度、あんなにうまそうなものをガブガブと飲んで、いい気になって、いいたいことをいって、うれしがって、夢中になって、気に入らない奴と大喧嘩をして、なぐりつけたり、他人に迷惑をかけてみたりしてみたいと思う。
ところが飲めない私にとっては、酒と喧嘩は猫いらずだから情けない。まったく私は一滴の酒も飲めないのだから、一生涯私は正気であるわけだから辛いと思う。
それで私は、時々この世界から酒というものが退散してしまえばいいと思うことがある。この地球の上に、飲める者と飲めない者とが共存している[#「している」は底本では「してしる」]ことは、まことにお互いにうるさくていけない。金持ちと貧乏人が共存しているよりも不都合に思えることさえある。
まずこの世の中の遊興の組織が既に酒を中心として組み立てられているようだ。私はこの組織のために時々大震災や近火ぐらいの苦し
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