憾に思う。

   骨人

 脂肪過多はどうも夏向きでない、でぶでぶと肥えた人たちは、真夏において殊《こと》に閉口しているのを私はよく見る、じっとしていても汗をだらしなく流しているさまは、真《まこ》とに気の毒な位いである、歩けば股摺《またず》れがして痛いのだ、しかし私は一生に一度でもいいから、股摺れの味が味《あじわ》いたいと思う事がある、そんな身分であれば、さぞ心ゆったり[#「ゆったり」に傍点]とする事かと思う、私のように痩《やせ》た人間はいつも股と股との間は四、五寸も距離があり身体は地球から二、三寸上を、人魂《ひとだま》の如くフワリフワリと飛んでいる如く感じられてならぬ、心常に落付かない、その代り夏は葦張《よしずば》り、風鈴、帷子《かたびら》の如く冷《すず》しい、従って夏に向えば向うほど、身内の活動力が燃え上って来るのを感じる。
 八月頃の雲や空を眺めると、もう私はじっとしていられない。何はさて置き、一応は帽子を冠《かぶ》って、せめて屋根の上なりとも思う存分走って見ようかと思う位い、気が浮き立って来るのである、だから梅雨《つゆ》晴れという時が、一年中でも一番素晴らしく楽しい時期である、陰鬱な湿気と冷気からパッと太陽の陽気の中へ飛び込むのだから堪《たま》らない、蝉《せみ》が鳴いて青葉が輝いて目がグラグラする、そのグラグラがとてもよくて堪らないのだ。
 何んといっても夏は私のような骨人の世界だ、だから夏を好み、夏を愛し、夏を待って躍り出す連中といえば、皆私同様骨と皮のいでたち[#「いでたち」に傍点]か、あるいはガラス、セルロイドの如く煙の如く淡く、あるいは透明半透明の軽装な奴が多いようである、私なども半透明の人間かも知れない、私の他にも幽霊、人魂、骸骨《がいこつ》、妖怪《ようかい》、蝉《せみ》、蜻蛉《とんぼ》、蜘蛛《くも》の巣、浴衣《ゆかた》、帷子、西瓜《すいか》、などいろいろと控えていて夏を楽しんでいる。
 夏は天上陽気盛んであるが、この地上は万物陰となる、冬は天上陰となるが我地上は陽気で満つるのだと、私はある老人から聞いたが、実にその通りだと思って感心している、骨人や幽霊は冬その姿をひそめ、人魂や牡丹燈籠《ぼたんどうろう》の芝居は夏に限って現われる、井戸の水は夏において冷《つめた》くなる、石炭やストーブや火鉢《ひばち》や、綿入れや、脂肪は、冬に現れ出すし井戸の水さえも冬において熱くなるから冬の地上は陽気で満ちているのかも知れない。
 それでわれわれ骨人とか半透明体なるものは天上陽気の夏こそ正によろしいが、常夏《とこなつ》の国ではない我が日本国にあっては平均すると寒い期間、即ち影をひそめていなければならない期間の方が、多いようだから従って苦労も多い、そろそろと世も野分《のわき》の時分ともなれば、かの秋風が何処《どこ》からともなく吹き初めて来る、すると早や幽霊や骨人や蜻蛉や氷屋は逃げ支度《じたく》だ。
 急に冷気を覚える朝など、蜻蛉が凍えて地に落ちているのをしばしば見る事がある、私は身につまされて憐れに思い、拾って帰って火鉢や手で温めてやると急に元気づいて部屋中を飛び廻る事があるが、しかし、何んといっても天上陰気が回《め》ぐって来たのだから致方《いたしかた》がない、結局死骸となって横《よこた》わってしまう。
 私は蜻蛉の如く秋になれば死骸とはなりはしないが、もう心の奥から変な冷気が込み上って来るのを覚える、心細さは限りないのである。
 かくて、秋から冬、晩春から初夏まで、私は寒い寒いといいつづけて暮すのである、寒くないのが夏だけといっていい位いだ。
 その真夏でさえも、私は印度洋で風邪《かぜ》を引いた事を覚えている、八月の印度洋は毎日梅雨の如く湿気と風とで陰鬱を極めるので、とうとう風邪を引いて笑われた、骨人の悲しみは冷気と陰気にある。

 かような訳から私はまた夏を好く以外、すべて温そうなもの、陽気なもの、明るいもの、肥えたもの、脂肪多き女と食物、豚のカツレツ、ストーブ、火、火鉢、湯たんぽ、炬燵《こたつ》、毛織物、締め切った障子、朱、紅、の色などいうものを好みなつかしむ心|甚《はなは》だしい。
 従ってその反対なもの即ちすべての陰気、骨だらけの女や万《よろず》河魚類、すし、吸物《すいもの》、さしみ、あらい、摺《す》れ枯《から》した心、日本服など頗る閉口するのである。
 日本服といえば、私は決して嫌《きらい》なわけではないが、冬において私は日本服を着るのに際して、是非とも厚いシャツ二枚、ズボン下二枚を重ねて着込まなければならないのであるから悲しいのだ、大体和服の下へシャツを着用する事が既に間違っているのだ、袖口《そでぐち》から毛だらけのシャツがはみ出している事は考えただけでも堪《たま》らない、怪《け》しからず不体裁ではないか。
 
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