って無理解で無趣味だということを説明して話をそらしてしまうのである。
 私は今までに幾度となくこの種の表情を見た。以来私は非常に芸術に無関係らしいところの、相当の年輩の紳士に紹介されることを怖れるようになった。もう止してくれ、止してくれ、と心で叫んでいるうちに、何も知らない私の友人は手早く紹介してしまうのである。そしてあの嫌な表情に出会うのだ。潔癖で強情で神経の尖った絵描きはこの顔を見て山へ隠れてしまいたくなるのだ。神経の太いある種の芸術家はこのいやな顔からこそうまく金を引き出そうと考えるのである。

   雑念

 私は算術という学科が一等嫌だった。如何に考え直しても興味がもてないのだった。先生に叱《しか》られても、親父《おやじ》から小言《こごと》を食っても、落第しかかっても、一向好きになれなかったのみならず、興味はいよいよ退散する一方であった。
 5+5が10で、先生がやって生徒がやっても、山本がやっても、木村がやっても、10となるのだ。10とならぬ時には落第するのだからつまらない。
 私は5+5を羽左衛門《うざえもん》がやると100となったり、延若《えんじゃく》がやると55となったり、天勝《てんかつ》がやると消え失《う》せたりするような事を大《おおい》に面白がる性分《しょうぶん》なのである。
 何故、この世の中にこんな小うるさい学科が存在して私を悩ますのかと思った。私の心に厭世《えんせい》という暗い芽を吹き出さしめたのは、算術であったといっていい位いだ。
 数学の書物《しょもつ》と来ると、見るのも不愉快だった。安物で、まっ黒で、不体裁で、不気味で、全く私はこの黒い本を見ると、死神を思い出し、私の嫌な蜘蛛《くも》を思うのが常《つね》であった。
 算術の問題というものがまた実に面白くないものだ。大工《だいく》ありと来るのだ、一日に何時間を働くといった、事が書いてある。当時十二や十三歳の小供が、大工の生活などに興味が持てるはずがない、それがまた賃金の問題だからなおさら無関係だ。大工が何時間働こうと汽車がいくら走ろうと、玄米が何銭であろうと、私の知った事ではないという心が、早速、私の腹の底へ横《よこた》わるのであった。いくらの買物をして釣銭がどうとかこうとか、全くそんなケチな事はどうだっていい、釣銭はいらないよといった心が横わり出すと最早《もは》や到底私の力でも先生の力でも親の力においてさえも、この横わりたるこの心は、動いてはくれないのだ。従ってこの問題を解こうなどという柔順な気もちには決してなれないのだった。
 その上、私はまた小さな時分から、いろいろな雑念に悩まされる人間であった。雑念といってもいろいろとあるが、一例を挙げると、今は田舎にのみ残っている処の、祭礼に引き出す地車というものがあった。この囃子《はやし》が私は大好きだった。鉦と太鼓でチキチン、コンコン、といった調子が連続するのだ。それから芦辺《あしべ》踊りとか都踊りの囃子も大好きだった。ずらりと並んだ舞子たちが、キラキラと光った鉦を揃《そろ》えてたたくのだ、チャンチキチン、コンコン、というのだ。これが馬鹿に華やかで気に入って、心の底へ浸《し》み込んでしまったのであった。
 私はこの、チャンチキチンのために、ますます算術が馬鹿々々しくなって来るのであった。
 大工あり、日に何時間と読むうちに、何んだつまらないと思うと同時に、チャンチキチンの囃子が猛烈に始まるのだった。こうなると問題も試験もくそもなく、ただ私はチャンチキチン、なのだ。
 先生はさように賑《にぎ》やかな囃子が、私の心に始まっているとは知らないから、無遠慮にも次の問題を小出《こいで》と言って、しばしば難題を吹きかけるのであった。その瞬間、芦辺踊りもちょっと鳴りやむのであるが、出来ませんといってこの災難を追払うと同時に、またもやチャンチキチンだ。
 この地車や踊りの囃子はとうとう私の親父の臨終にまでも襲来したのには、フとわれながら厭な気がした。親父の臨終において、チャンチキチンなど考えているべきはずではないではないかと私は私の囃子|方《かた》へ、ちょっと注意をしてやった。しかし、私は人間の心というものは、かかる大変に押詰った場合において、なお幾分の空地があるという事が、かえって甚《はなは》だ悲しく思われた。
 先ずそんな事で、私はとうとう算術を断念してしまった。一切やらぬ事と定《き》めた。その代り多少とも他の学科へ力を入れる事にして、図画で百点を取る事にきめた。要するに平均点で進級するという方法なのだ。これは案外成功だった。やっとの思いで、美術学校へ入学した時、私は初めて算術から解放された。私の死ぬまで算術がないんだなと思った時、私の嫌いな、世界中の蜘蛛《くも》が一時に自殺してくれたような心地がした。もう私の
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