はその親切を一生忘れ得ない。
以来私は絵の道具を担《かつ》いで坂路を登ることを大変|厭《いや》がるようになった、坂路を見ると目がくらむ心地が今もなおするのである。
私は一人で風景写生に出ることを好まなくなったのはどうもその時以来らしい、画家の健康と、モティフとの関係は随分密接であると思う。大きなトワルを持って幾里の道を往復するという仕事は私にとっては先ず絶望の事に属するのである、従って私は静物と人物を主として描きたがる、これはモティフが向うから私の画室へ毎朝訪れてくれるから都合がいい、多少腹が痛くても仕事は出来るが風景は向うから電車に乗っては来てくれない、風景画家には健康と、マメマメしい事が随分必要である事と思う。
それから間もなく、やはり胃のふくれている或日の事、私は活動写真を見に入った、すると蛙の心臓へアルコールを灌《そそ》ぐ実写が写し出されたのであった、蛙の心臓が大写しになるのだ、ピクリピクリと動いている、ああ動いているなと思う瞬間、アルコールの一滴がその心臓へ灌がれたのだ、すると、そのピクリピクリの活動が、とても猛烈を極《きわ》めて来たのだ、おやおやと思うと同時に私の心臓は蛙と同じ昂進を始めて来た、私の眼はグラグラと廻り出した、驚いて私は館から飛び出した事があった。
ともかく私は私の厄介の腑のために随分人に知れない、余分の苦労をつづけている次第であると思う。
蜘蛛
むしがすかぬという言葉がある。何もそんなに厭《いや》がる必要のないものでもどうもむしがすかぬとなると堪《たま》らなく厭になるもので、またむしがすくと、変なものにでも妙に愛着を覚えるものだ。
恋愛などでもそうだ、男は必ず日本一の美人に恋するとは限らない、よそから見ると、何んだ、あんなもの、どこがいいのかと思うがその当事者にとってはとてもなかなか大したもので、おお谷間の姫百合よ、野の花よあなたなしに一日もとか、全く変な讃辞を封筒へ収めて書き送っているから全くむしは厄介《やっかい》だ、たべものなどもむしが大《おおい》に関係するし、美術家の喧嘩《けんか》などは大抵この虫から起るようである。
さてまたこのむしが、本物の虫を嫌うことがある。誰れにでもよくあることだ、私は百足《むかで》が厭だとか蛇が大嫌いとか、なめくじが嫌だとか毛むしあるいはいもむし、といろいろある、これも、よく考えて
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