一した合理的な美しい種類が出来てしまっているのだ。
フランスあたりの額縁屋の店を覗くとその職人が、さものんきそうに彼らの店さきで、ゆったりした顔をして美しい縁をつくっているのを見受けると、まったく羨ましい気がする。並んでいる無数の縁は安ものの仮縁でさえちゃんと正確なクラッシックな心がその一つのカーブにまで現れているようだ。
また古物の素晴らしいのが見たければ古縁屋へ駆けつければいいのだ、階下も階上も、涎の止め難い素晴らしくよい味の額縁でうずまっているのだ、あらゆる形式と種類で埋まっているのだ。
またパリの夜店などあるいてみると汚ない小道具屋によくビッシエールなどの使っている古い額縁などの味のよいのが発見されるのだ、何という便利さだ、絵が出来た縁がほしいと思う、額縁屋へ走る、仕入れのものでも何かがある、ピッタリと合う、うれしいというわけだ。われわれは贅沢はいわない、すっきりとした、正当な、本すじでさえあればそれが仮縁でも何でも喜ぶのだ。
ところで日本の現在ではどうだ、田舎の万屋で山高帽子を買っているようなものだ、何といっても品物は三個しかありませんから我慢しといて下さいというふうだ、で仕方がない、多少インチも合わず古臭いが新聞紙でも入れて我慢しようということになるのだ、いつも我慢と辛抱で通すのだ。
人間はあまり我慢と辛抱をしていると神経衰弱にかかるものだ、恋愛の相手が見当たらぬようなものでいらいらするのだ。
額縁は帽子ほど万人が皆冠るものでないから三十年も時代が遅れるのも無理はないが、今少しわれわれの帽子屋が出来てくれてもいい時代だろうと思うのだ。
私達は毎日の必要に迫られているのだから、まったく贅沢なことは望まない、味のいいものなら竿縁で沢山なのだ。プツリプツリと切って早速組み合わせてくれればそれでいいのだ、四隅の合せ目など一分ぐらい隙が出来たって、そんなことは問題ではないのだ、本すじのもの、いい味のものがほしいのだ。
私は止むを得ない要求から昔、日本へ渡った湯屋や散髪屋の古鏡の出ものをあさることを始めた。それはそのクリカタや凸凹の味が本すじなのだ、全体の光沢が金属的なのだ、この金属的が有難いので、日本製のものはクリカタでも模様でもジジムサイのだ、ハリボテの感じがするのだ、職人が味ということを知らないのだ。第一に誠意がない。
私はしかしながら、ぜひ
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