って今の世の芸術はもっぱら複雑な嫌味で成り立っている時代かも知れない。
 もう今日の場合ではいかに竹林の七賢人が賢くて嫌味のない人種だからとはいえども、出る幕ではないということになっている。生殖不能だなどいっている奴は早速人生の失業者となって橋の下で死んで行くより外ないだろう。芸術は目下戦争なんだ。当今芝居でも剣劇というのが何よりも流行するというのももっともなことだと思う。
 戦争の時代では嫌味もくそもいっていられない。そこで何しろ事に当たるものは若い者に限るとなっている。壮丁を必要とするのだ。だから今の芸術は画壇でも何でも若いものが、その中心となって働いているわけだ。
 それは無茶にでもやって行けるのだ。ところが悲しいことには西洋人の如く、本当の精力とか体力が何といっても足りないのだから、すぐ早老が押し寄せてくる。生殖、繁殖、進行、猛烈が長く続かないのだ、気ばかりあせってもすぐ早漏だ。これが長い年月嫌味を排斥して棺桶を理想としてきた罰かも知れない。日本ではルノアールの如くあのよぼよぼになるまで、あんなに美しい裸婦の描ける人が一人だっていないのだから情けない。嫌味がなさ過ぎるではないか。
 この多忙な戦争の最中にでもちゃんと坐りこんで、やはり芸術品はアカぬけたものに限ると合点した有望な若い人たちもあるんだが、それが女郎買いを三回分簡約して明日から謡曲の稽古に通ったところで、どうも時代の大勢をいかんともすることが出来ない、これはかえって二重の嫌味が発散したりして、我慢がなおさらならないことになったりするのだ。
 とにかくこの始末は何とかつくには違いない。私はやはり何といっても人間は自分に似合う帽子を買ったり、足のいたまない靴を選択したりするように適当なものを探し出すことだと思う。目下靴が自分の足に合っていないことをそろそろ発見しかかっているんだから、たのもしいことになって来てはいる次第だ。そして優秀な芸術はわれわれのような青二才では出来ない芸当だということになって来なくては駄目ではないかと思う。
 ルノアールのその晩年の裸女なども東洋的な味からいっても気品の高いものである。鉄斎翁という人もその晩年のものが実に素晴らしいではないか。あの鉄斎翁の最近の肖像というものを見たが、まったく絵かきの「ぬし」といった顔をしている。何でも「ぬし」とならなければ神通力は得られない。狐な
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