出しましたまま書き記《しる》す次第であります。
大体世の中で何が一番怖ろしいと申しましても人間位い怖ろしいものはありません、妖怪や狐狸変化《こりへんげ》の類に噛殺《かみころ》されたものは尠《すくな》いが、大概の人間は、常に人間に悩まされているようであります。
私が美校を出て三、四年うろうろしていた或秋のことでした、私は風景写生がして見たさに奈良へまいりまして、そこで或人の紹介で金持ちの後家さんの離座敷を借受ける事になりました。
その家は木辻遊廓の近くにありまして、奈良特有の低い屋根で蔽《おお》われた暗い家でした、主人の後家さんというのは、何んでも亭主にも養子にも逃られたという事で、今は女中も置ない完全な一人暮しでありました、年は六十幾歳という、頗《すこぶ》る萎《しな》びた老人でありました。
ところが、初めて私がその座敷へ通った時、婆さんは私を案内しながら、埃《ほこり》のつもった雨戸を開けたり蜘蛛の巣を払ったりしてくれました、その時私はつくづくと婆さんを眺めて、少しおかしいなと思いました、その顔というのが何か草鞋《わらじ》の裏といった形相《ぎょうそう》で、無数の皺《しわ》の中には白粉《おしろい》がかたまっているようでした、それから頭の構造が頗るややこしいのです。先ず額に一本の針金が渡されていて、情けない毛髪がそれから生じているのです、その絶頂には小さな丸髷《まるまげ》が一つ乗っているのでした、その髪の下は完全な禿頭《はげあたま》で、その禿頭にはくろんぼ[#「くろんぼ」に傍点]がベタベタと瘡蓋《かさぶた》の如く一面に塗られていて、到底じっとは見ていられない穢《きたな》さでありました。
あれが妖怪狐狸の類ならば、こんな下手《へた》な化け方はしないでしょうが、そこが人間の情けなさから頗る深酷に手古摺《てこず》っているのでありました。私は婆さんが側へ来ると何か異様の毒気を感じるのでした。
しかしその座敷が閑静でいいのと、紹介してくれた人への義理もある処から、まあ不気味な婆さん位いは、我《が》まんする事にしました。
ところがまたこの家には電燈が一つもないのです、婆さんは古ぼけたランプを一つよそから借りて来てくれました、すると一体婆さん自身はどうしているのかと思って見ますと、庭を隔てた母屋《おもや》の彼女の部屋には何んと、唯一つのカンテラ[#「カンテラ」に傍点]が点
前へ
次へ
全83ページ中70ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小出 楢重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング