った天花粉の箱を覆してしまった。愕いた裸女は起き上がって電灯をつけた。天花粉の山積みせるところに私が蒼ざめて立っていたのだ。二人が白い粉の始末を夜の三時つけているうちに私達生まれて第一回目の結婚式が挙げられた。ちょうど幸いその頭の上には神棚があった。
夜の裏通りの二人の幸福が女中のゲロゲロによって暴露されようとしつつあった。
ある朝私の姿がB家から見えなくなって、がらん洞の感じだけが残された。Cが失神する位の蒼さを呈したのと、ゲロゲロでもって完全にB夫婦にも合点が行った。「Aよ話つけるすぐ帰れ」という新聞広告も省略された。どうせ今に舞い戻ります、見ててみなはれと皆が見当をつけた。
女中Cの始末と、生まれた子供の処置が大よそついたと思われるころ、予定の如く私は食いつめて、脚気を持って東京から舞い戻った。
4
親類中でも顔の利くというM老人が早速叱りがてら、相談がてらやって来た。この老人がいつも遊びに、あるいは叱言をいいにくる時間は常に晩の八時前後ときまっていた。それまでのコースは、相当余裕と手数がかかっていた。例えば家を出ると道頓堀の北詰を西へ曲がる。そして「おちよやんはいるか」といって暖簾をくぐるのである。茶の間の長火鉢のまえで紫藤のまむしを一杯食べて、それから小用に立って、その帰りにおちよやんの尻を一つ蹴るのである。この一と蹴りが何のことかはおちよやんよく心得ていた。すなわち二階三畳の間を掃除して、行燈と、煙草盆と、お茶と、その他いろいろな用意をする。さてM老人は二階へ。雑用の後、M老人は手も洗わず「どれ一つ親類のゴタゴタを片づけて来ましょうか」といって立ち上がるわけらしい。
おちよやんは時々私達へそっと喋る。「あのおっさん気をつけなはれや、いやらしおまっせ……。」
その手で煙管へたばこをつめながら、老人は私の前へいかめしくも坐って「何ということをした。罰あたりめが、恩を仇で返すとはそのことや」といった。私は平身低頭以外の何物でもなかった。
5
その後、難波あたりで小さな文房具屋が始まった。私と花嫁さんがきちんと向き合って店の番をした。B夫婦はまずこれで一と安心やといって安心をしてくれた。
花嫁R子は神経的な清潔さを持った女だったが、どうしたわけか、二、三カ月すると奥座敷のくらい壁に向かって、幾日もわけのわからぬ涙を流して動かなくなってしまった。時にはそのまま二、三日も失神してしまう。私は何が何だかわからない。ただ彼女の前へ、朝から晩まで坐って慰めていた。R子は私の顔を見つめている間は笑っているのだが、客がくるとか、用事で立つと、すぐ泣き出すのだ。客と私が店で応対中は、暖簾の間から顔を出して微笑を私に捧げるものだから、客も少なからずおそれて逃げ出した。
店はしたがって丁稚と番頭の二人の世界だった。手車を曳いて二人は顧客廻りに出るのだが、芝居裏のとある街角の電柱で手車はいつも一人待たされていた。巡査は時々この車は一体誰のものかといって、靴で一つ蹴って行った。
今月も、来月も毎月損害ばかりだった。B夫婦はこの有様を心配して嫁を当分入院させようとした。一時間も離れてはいないR子が、私から隔離されるということは、彼女にとっては大事件だった。それを聞くと彼女は直ちに痙攣を起こして意識を失ってしまった。
R子の目が醒めた時、そこは病院だった。
病院のR子から幾通かの手紙が束になって来た。病院へ来てくれというのだ。病院へ行くことはならぬと禁じられていた私は、大方の時間を病院で暮して互いに眺め合っていた。するとR子の神経は私へ、私の神経はR子へ乗りうつって、とうとう私達はともに死のうといってしまった。死ぬより外に面白いことはなかった。
その翌日病院からの手紙の一節には「私とともに死んで下さることにお心きまりし由うれしく存じ候」と記されていた。
ある夜の八時ごろ、病院から抜け出した二人は、千日前の安写真屋で記念の肖像を撮って、南海線を南へ南へと散歩した。R子は、さあここがよろしいといったが、さあと声がかかると私は「ちょっと待って」と制した。
せっかく来た汽車はまた行き過ぎてしまった。
私はふと、銭入れの中に守札のあるのに気がついた。それで気おくれがするのだと思ってそっとまるめて道ばたへ捨ててみたりしたが、どうも構図のいい場所はさらに見つからなかった。
6
重クローム酸カリを、大コップ二杯へなみなみと溶解して、毎晩夜半になると二人は乾杯を試みたが、さあとなるとあの黄褐色は私の食慾をそそらなかった。
やはり軌道と動輪との間の鋭角がいいと感じた。ある日また病院をぬけ出した二人は五、六里の郊外を散歩してその日暮れ時に、ちょうど適当な構図を発見した。森、草の茂み、星、虫の声、石塔の頭が並び、人家はなく、線路は近し、シグナルが青く、いくつかの列車が往復した。もう今度が終列車らしいのだ。これを外してはまたあす一日歩かねばならぬ。R子は私を抱いていうのだ。「今度こそは一と思いに、な」と念を押した。
機関車は火の粉を高く吹き上げつつ近づいて来た。二人は立ち上がった。そしてそれから何も知らない。
頭をひどくやられた私は、入院して約一カ月の間仮死の状態で暮してしまった。その間に文具屋は廃業され、R子の家の方もほぼ片づき、私はある寺院で出家させることにまで、プログラムが定められていた。
その辺りで私が再びこの地球へ舞い戻って来た。私の蘇生は私にとっても誰にとっても迷惑なことなのだ。目が醒めると同時に私は、R子はどうしたかと皆に訊ねたが、皆返答に困った。
私はまだ機関車の火の粉の前にいる気がした。「一と思いに、な」といったR子の声が強く耳にのこって消えない。私は何か適当な紐かナイフを求めたが、厳重に警戒されていた。
R子はその場で粉砕されたことが、だんだん私に知れて来た。
7
その寺院は、ちょうど箱根の環翠楼とか何とかいうべきある山中に、多くの客室を持てる大寺院だった。信者は都会および全国に行き渡っていた。そして株屋、相場屋等が信者の中でも主位を占めていた。院主は金襴の法衣によって端麗であり、羽左衛門そのものであった。
私は幾月間かの修業によって、得度の式を挙げさせてもらった。商人であったその才能と温順さが認められたものか間もなく取り立てられて院代様にまで成り上がろうとした。それには今少し学問が必要でもあったので私はK市へ下宿した。生まれて初めて洋服を着用した。もちろん金ボタンの大学の制服だった。角帽を被った。その意気な形はそのころの壮士芝居のスター秋月桂太郎を思わせた。芸者がきっと惚れるだろうとも思ってみた。間もなく私は髭を蓄えてみた。自分の幸福もいよいよ表通りへ出て来たなと思ってみた。出家してこんな明るいプログラムを行こうとは思わなかった。私は髭の出来た制服の記念撮影をして、B家その他へ送ってみた。それにつけて、R子がいたらさぞ喜んでくれたに違いないと思うと、最後に念を押した「一と思いに、な」といった声が、下宿の夜の退屈時には思い出されてくるのだ。
私はある夜、新しい髭にチックをつけて、私の下宿から遠くない四條通りを散歩して、思い切って横町の細い小路が大腸の如くうねっている中を行ってみた。この散歩はとうとうその腸内の一角で炎症を起こさせてしまった。私は寺の鏡帳[#「鏡帳」は底本では「鏡張り」]も講中の掛金の一部も学資も、何もかもをこの腸内へ押し込むことで夢中になってしまった。とうとう私は罪のソーセージを造り上げてしまった。女も自ら借財の山を築いて、その心情を私に示してくれた。さてまた私は毒薬と、ピストンへの誘惑を感じて来た。
でも私は知らぬ顔で、学校の暇な時には院主様の車のあとにしたがって、檀中や何々講の総代の家を訪れた。院主は常に経堂再建、ケーブルの敷設計画、年頭年始何やかやと多忙であったから。
ある総代の奥座敷へ通ると、生まれてまだ乗ってみたこともない、高さ一尺もあろうかと思える座蒲団が輝かしく床の間の松竹梅の前に二つ並べられ、いつも私を叱るM老人に似たつやつやと湯上がりの主人の禿頭が、平たく低頭するのだからいい気持だ。そのついでには、これはまた新法主様と尊ばれたりもすると、私自身の責任の重さを感じると同時に、私は四條新地の暗いソーセージを思い出してぞっとした。
だがしかし、それらの帰り途のある街角へくると、院主様の車はいつもきまった横町へ隠れてしまう。その隠れぎわに院主は、私に明朝までB家で待っておれと伝える。院主だっていいソーセージを作っているのだからと思うと、私の心配も少々明るさを増すのであった。
8
ある日院主様はB家を訪れて、折角私があれだけ信用してかわいがってやっているのに、こうこうの所業です。これでは困るから当分引き取らせてほしいということだ。まず放逐だけは許された私は、学校生活も院代の役目も抹殺されて、内勤専門の御座敷へまわされた。「ようこその御参詣で、今日はあつらえ向きの松茸日和で結構でんな。とうちゃんもぼんぼんも成人しやはりまして、ほんまにうっかりするとお見それいたします。当山もおいおいとはつこうなりまして何よりで、もうこれでケーブルがかかりますと申し分御座りまへん。へえ御酒はめし上がりますか」といったことを幾回も一日に繰り返して、精進料理を信者の前へ運び廊下をどたばた走らなければならないのだった。
そのうち子供と思っていた者達が院代となり、力ある弟子が新法主となるに及んでも、私は廊下を走っていた。これではいけないと思ったが、どうする途もなかった。私の途は廊下の往復に限られていた。私の人生はまた雨模様となってしまった。
寺からの涙金やBやMの世話であるY山中の貧乏寺の老舗を安く買い取った私は、やっと私自身をそこへ安置してみた。村の人は親切だった。しかる後、和尚さんも一人身では不自由だろうというので、ある適当な女性が世話された。彼女も半球であり私も半球であったから、これは妙案かも知れなかった。
金色の眼が三つ、手が六本、全身に群青を塗られた真言宗のグロテスクな巨像の前で、仏前結婚が村人たちとともに飲み明かされた。
私は毎日版木へ墨を塗ってお札を摺る。かつてはまるめて捨てたであろうところのそのお守を製造する。年頭のお鏡帳[#「鏡帳」は底本では「鏡張」]を整理する。葬式と朝夕の勤行である。S嶽登山の季節になると、行者が五、六人ずつ時に立ち寄って行くので、おろうそく代が上がる。
月はY連山から現れる。押入れの中でさえこうろぎが鳴く。私は妻と二人でおろうそくの売上げを勘定する。いとも静かでつつましやかな山中だ。
9
ある日B家からM老人キトクの電報が来た。私は直ちにその日の終列車に乗り込んだ。この汽車がH駅を通ると間もなく、私が以前R子と最後に憩うたところの森を通るのである。私はいつもここを過ぎる時、念仏を唱えて目をつぶっているのであった。
病院の一室だ。私はM老人の枕もとへ坐した時、老人はゲラゲラと笑い出したので、危篤というてもかなり元気だなと思うと今度は急に泣き出した。するとまた老人は紙幣を一〇〇枚持って来いと命じた。彼が常にする日課であったように、毎日の売上げの紙幣にこてをあてるというの[#「の」は底本では「ふう」]であった。妻君は半紙と冷たいこてを渡すと、こてが冷たいから皺が延びないといってまた怒り出した。こてを振りまわされては危険だから、皆がよってもぎ取ってしまった。親類のFさんが低い声で説明するのだ。「この中風にはよい注射があるのやそうですけれども、こう衰弱してはりましてはそれもあかんそうです。何しろその注射をしますと四〇度位の熱で、その熱で中風の黴菌を焼き殺そうというのやそうですさかい。」[#底本では続く改行はなし]
老人はまたゲラゲラと笑い出した。
[#地から1字上げ](「週間朝日」昭和六年一月)
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