、塩かげんで食うているが、非常にうまい。朝はオートミールとオムレットなどやパンもバタもとる。
 この手紙も、日本へは四十日余りせんと届かんかと思うと、心細いね。
 此の間から印度洋のタイクツをまぎらすために、色々な余興が多かった、演芸会があったその時には一寸赤いたすきがけで俺は皿まわしをやってやったよ。
 今、船の走っている紅海辺は、日本の時計の時間よりも、六時間遅れている、西へ行くごとに時間が遅れてくる。時計は日に十分、十五分位ずつ遅らして行く、だから今この手紙をかいているのが、夜の八時三十分であるが、日本はもう夜の丑みつ頃で、二時か三時かで重子も泰公もお梅も、だれもかれもが皆ねている時分だ、と思うと、少しおかしな気がする。又便りする。
 皆たっしゃである様に。僕は、非常に気をつけているから大丈夫である。

 九月八日
 Colombo を出てから、実に十幾日目だ。夜になったり昼になったりしているが、相変らずの海だ。やっとの事でアデンを遙かに見て、紅海に入った。あさっての朝にはポートセッドに着く事になっている。
 Colombo を出てから、ムンスーンに出合って海はカナリにシケた。食堂がヒッソリした。大分、酔うた連中が多かった。僕も人のゲロ吐くのを見て、一寸気もち悪い時もあったが、然し、一度も食堂はかかさず、だんだんめしがうまくなって行ったので、大に悦んでいる。もう船旅は何んでもなくなった。然し早くマルセーイユへつきたく思う。十何日陸を見ないとカナリ飽きる。
 きのうは紅海で、アフリカの砂漠の砂が風のために空と海を黄色にしてしまった。口の中がジャリジャリして弱った。紅海は暑い、初めて熱帯らしい気がした。
 印度洋は、大抵毎日、七十度台だから、寒さを感じる程であった。然し暑い紅海も、向い風であるので、九十度位だから、しのぎよい。
 あさって頃からは、ズッと涼しくなるそうだ、ムンスーンの風のおかげだ。暑いよりは涼しい方がよいと思う、少々船はゆれても。
 おととい、紅海へ入った日に、ヒチリン(カンテキ)のカケラの様な殺風景な島を見た。こんな島を見ると、ナル程日本から遠く離れて来たなアと思う。噴火口であるそうだ。
 かもめが沢山船について飛ぶ。
 此の間から二度、カジヤ町のうちへ帰った夢を見たよ。大ぜい子供が集って、泰ちゃんと遊んでいたよ、重子とおばアちゃんとが居たよ。フト気が付くと、アア俺は今紅海を走っている最中やのに、こんな処へ帰ってはさア大変だ、早く船へ帰ろうと思ったら、又旅券の下附願いからやり直さねばならぬ事になって、これはなんじゃと思うて、フト夢からさめたら、クライストのベッドに居ったので、おかしい様な、ヤレヤレとした様な、妙な気もちになったよ。

 九月十四日 地中海にて クライスト丸より
 三日してマルセーイユへつけば、一泊の後ちパリへ入る。
 ポートセイドではよほど欧洲らしい気分になって来た。夜のメンストリートの道側のカフェーの椅子に腰かけて、散歩する色々な人種を眺めていると、カフェーのオーケストラが聞えてくるし、路バタの熱帯らしい樹木が垂れ下がって、実にいい気もちだ。
 早く帰って、も一度今度は重子も泰公もつれて来てやろうかと云う心もちがしている。それはいいんだからね。
 此の辺はエジプトの黒人と、アラビヤ人と、欧洲人とのごっちゃまぜだから面白い。黒い人は皆赤いトルコ帽を被っている。
 何れマルセーイユへつけば、又手紙をかく事にする。
 もう船の中では、皆上陸の準備で忙がしい。
 熱いうちは、デッキが賑やかだったが、もうこのごろのデッキは、ヒッソリとして、皆が Cabin へ入ってしまっている。海洋のまん中でも、秋はもの淋しくなるものだ。
 今夜は甲板で月見の宴をやろうという話がある。丁度、日本では豆明月だと思う。サヤマメがたべて見たいと思う。
 パリへ入る日は、丁度おひがんの入りあたりであると思う。
 此の辺の空気は乾燥しているので、暑い時でも汗が出ないので、気もちがイツもセイセイしている。健康によいと思う。
 おかアさん、おばアちゃん、お梅ちゃん、奧田さんなど、皆への健康を祈る。泰公も皆たっしゃで。又後便にて。

 九月十四日 地中海にて クライスト丸より
 ポートセイドの町を歩くと、女の手携げ袋のステキな面白いものや、壁かけのいいのや、サラサのいいのがずい分ある。皆かいたいものばかりだ。が、往きに買うと荷物がフエルから、ぜひ帰りには買って帰るつもりである。然しかべかけの一枚は買った。
 重子が見たら、とてもその店から動くまいと思われる位、すきなものをどっさりと此の町には売っている。
 何から何まで面白いものばかりだ。
 アラビヤとアフリカの種々な感じの模様と色のよさは、とても日本の五階下をうろついていては見当らないもんだよ。帰りには、ずい分珍らしいおみやげがあるから、そのつもりで楽しんでいてくれ。
 Portsaid を出てから船はすぐ地中海に入ったが、風は涼しく、夜月はよし、波は静かで、琵琶湖で月見をしている様だ。気候はもう初秋の頃である、もうゆかた一枚では寒い、あい服を着て丁度よい位だ。ヒルはそれでも少し暑い時もあるが、何んと云っても九月だから、丁度日本のおひがんの様な心ちがする。
 ソヨソヨと風が吹いて、ポカポカと日が照って、甲板で作業をしているセーラーの姿を見ても、実にのどかである。地中海の水の美くしさは格別だ、碧い色は、見なくてはわからない美くしさだね。
 永い永い航海も、実にへど一つ吐かず健康のうちに、もうあと三日で終りを告げようとしている。
 日本ではカナリに心配をしていた熱帯の旅行も、思った程の苦痛ではなかった。ただタイクツだけが一番の苦しみだった。然し、林君や、硲君や、その他の連中が多かったので大変楽だった。

 九月十六日
 永い永い航海もあす一日で終を告げる事になった。
 クライストにも四十幾日間ものっていると、もう、自分の家の様な思いがして、別れるのが少し気の毒な様な気がする。然し早くパリへ着きたい。昨日から伊太利の沿岸を走っている。
 あすの朝八時頃にはマルセーユの港へ入るそうだ。
 今日の午後には、ナポレオンの流された、コルシカ島のそばを通過する。
 きのうは、エトナの噴火山のすぐ近くを通過して、噴煙の盛んな光景を見た。
 地中海はサザ波も無い静かさである。
 初めて伊太利の山を見た時は、丁度垂水の海から陸の方を見たのと同じ事だった。御影あたりから六甲山を見たのと同じ景色もあった。急に帰りたくなった。
 地中海の水の色は美くしい。イタリーのメッシナ海峡を通る時には、陸を走る汽車が手にとる如くに見えた。
 美くしい景色や、いい天気や、日本に似た景色を見ると、日本が恋しくなる。日本はやはり美くしい、デリケートないい国だと思うよ。
 あす、マルセーユへ着けば、すぐ到着の電報をうちへ打って、一泊の後ち友人三四人とパリへ夜行の一等車で行くつもりである。遠さは丁度神戸東京間位と思う。
 パリのステーションまで、美川君に迎いに来てもらうつもりだ。
 マルセーユから電報をうつはずである。
 もう日本を出てから、ずい分久しく日が経った様な気がする。日本の事がボンヤリとしてしまう。パリの方へ、イロイロの事を詳しくかいて、手紙をたのむ。
 泰弘は[#「 泰弘は」は底本では「泰弘は」]元気か、オモチャどっさり買うてかえるよ。

 九月二十三、四日頃
 マルセイユは思ったよりも絵になる、実にいい町だ。ジュネーブホテルで一泊のうえ、夜の急行の一等車で林、硲、長島と僕と四人づれでパリへ入った。朝八時過ぎパリ着。
 もう、何もかもが変ったので、一寸、あきれてしまって、一言も、一言半句も、手紙にもかけなくなってしまった。実に巴里は、何んとも云えないいい都会だ、その光景はあとからゆっくり通信する事とする。今の処、ただキョトキョトとして、町の見物と、語の不通と、勝手のわからぬのと、ややこしい混雑とで、何も手につかずウロウロとしている。夜のパリは又大したものだ。モンマルトルの舞踏場[#「舞踏場」は底本では「舞踏場と」]バルタバランなどは、とてもとても、日本から遠めがねででも覗かねばわからないもんだ。
 中村君に会うた、美川君にも会うた。僕は林、硲、長島と共に、よい家をかりて、その下宿(パンション)で、一人ずつサッパリした部屋をかりてすんでいる。
 その家は大きなベッドから、押入から、全部家具付き、電灯つきで、月に200フラン即ち日本の金で三十円程だ。
 風呂も云えばすぐ出来る。朝はコーヒーとパン、ヒルと晩は、外へ、レストーランへ喰いに出る。三十銭から五十銭位で、充分に食える。食い物は安くてうまい。
 下宿の場所は
 17 Rue du Sommerard 5e. Paris France.
だ。然し、又旅行に出たり、或はよそへ引越す事もあるかもしれないから、全ての通信は、巴里の日本人クラブ宛か、或は美川君の方か、どっちかへやって欲しい。美川君も、時々ロンドンへ行く事もあるとかだから、ナルベク、日本人クラブ宛に出して置く方が安全だ。僕は毎日日本めし食いに行くし、又旅行でもしたら、その先きへ転送してくれる事になっている。
 日本人クラブの宛名は、
 23 Rue Weber(16e)Paris France.
だ。日本人クラブとも何んともかかずによく届くのである。
 美川君の方へ出す時には、もうゴチャゴチャかかずに、やはり
     ┌────────────────────┐
     │ Mr. N. Koide             │
     │ Chez Mr. T. Mikawa,         │
     │ 3 Rue Beudant 17em. Paris France. │
     └────────────────────┘
でよろしい。
 落付いたら、ゆっくり、詳しく通信する。
 まだ、日本から美川君の方へ一向手紙が到着していないので、大阪の事情が一向わからず失望した。八月六日出の、吉延さんからのハガキだけは落手した。
 通信を望むよ。電報は一度かけるのに百フラン、一寸二十円程かかるので、あまり沢山うたずに、ケンヤクして、三休橋宛に一つだけ打った。何れ後便にて。
 ゴテゴテしている処へ、新聞なぞ見た事ないので日もわからぬ。

 九月二十七日 巴里より
 やっと、今日は巴里の一人歩きをやって見た。乗合自動車へ一人でのって見た。昨夜、美川君のうちで手製のめしをたいて貰って、牛肉でよばれた。いい家だ、三階で三間程ある。日本でだったら大変なものだ。あまり話し込んで遅くなったので、そのまま泊り込んでしまった。
 美川君は来年の三月の末頃に、アメリカ経由で帰るそうだ。丁度僕の帰ると同じ時せつに日本へつく事になるらしい。僕は三四月頃の船を注文するつもりだ。三ヶ月前に注文すればよいそうだ。それより早くは帰るかもしれんが、遅くはならぬ事は確かだ。巴里の絵なぞは一向につまらないものが多い。僕が日本で考えていた通りだ。来月の末頃まではいろいろの展覧会などがあるから、巴里に居て、それからドイツへゆく。
 美川君もるすになるといけないから、やはり日本人クラブの上記の方がよろしい。何しろ上記の通りかけば来ます。
 セーヌ河の古本屋、五階下の様なガラクタを売る店で、今日は面白いフランスの名所絵の銅版画の色ズリを四枚買って来たよ。
 巴里に居る間にいろいろ珍らしいものを買っとき度いと思う。
 大分道の勝手もわかって来たが、語は中々通じない。何を云っているのか少しもまだわからぬ。然し、下宿のおかみさんに朝飯の注文と、風呂の注文と、道を聞く位の事は出来る。
 巴里の千日前の様な処へ行くと、盛んな踊り場があって、その騒ぎはとても想像が出来ない位のもんだ。
 バルタバラン、オリンピアなどへ二三べん見に出かけた。これだけは日本から遠めがねで覗かせたい。
 パリの女の服装はずい分安いものを着ていて、美くしく見せる事は
前へ 次へ
全16ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小出 楢重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング