が新しさに馴れてしまったといってもいいと思う。例えば今やショウウィンドの装飾から、ポスター、新薬の広告から、活動写真のプログラム、カフェーのステンドグラスから、銘仙の新柄、女帯の模様の新工夫、軍艦の構造にいたるまで、それは構成的であり立体派的であり、シュールリアリズム風であったりしているので、全く今はそれらの事柄が判らないとはいっていられない。それは空気の如く雨の如く民衆の頭の上から降り注いでいるのだから、むしろどうかするとアカデミックな絵画が珍奇に見えたり、二科のうちでも印象派あたりの落ち着きある作品などは、ことごとく古風な芸術品と見えて来たりすることさえある位のものである。
しかしながら二科では実はもう五、六年以前、ことに大地震の秋あたりはことの外、今より以上の獣性、近代性、立体性の作品の多くを示したことを私は記憶している。そしてそれらの作品を集めた部屋へ入ると、人々は妙な顔をして顔をしかめて通ったものであった。
ところでようやく世間が、今それらのものに対して初めて食慾を覚えて来たのである。そしてそれが通常のことにまでなりつつある。すなわち彼女達の帯と、着物の柄と、絵画と、皆揃いの衣裳であるのだから。
尖端的、近代性は、以前のハイカラとか、文明開化、文化、などいう言葉の如く通俗化しつつあることを私は面白く思う。
しかしながら今日のハイカラは明日の新時代ではなく、明後日の近代性は来年の尖端には及ばないとすれば、ハイカラの前途もまた永遠であるといっていい。したがって二科の新鮮さもそれらの現れであるとすればまた永遠のものであろう。
さて近代性は二科の特質であり、その看板の如くであるようだが、しかしそれはそれらの尖端的のもっとも多くを抱擁し、それら新しき運動に対して常に門戸を開いているのではあるが、それが二科の全部の正体でも決してあり得ないと私は思っている。同時に二科は印象派以後のあらゆる諸傾向を含み集めていた。そして近代だからことごとく賛成するわけでもなく、古風だから皆悪いとするわけでもなく、運動は運動であり、進歩は進歩であり、同時にまた独自の芸術は芸術でもあることである。
すなわち二科全体を見れば、そこに自分の軌道を充分に持ち、年とともに安穏にその上を行進している人達と、自分の軌道と、自分の乗物と、自分の靴と、自分の足もとについて考察しているもの、あるいは靴を取りかえ、軌道を変更し、乗物から乗物と飛びあるきつつ悩むもの、あるいは掘りかえし掘りかえすもの、あるいは若さに躍り上がるもの、尖端を行くもの、くたびれるもの、あるいは自転車のお稽古最中にして時に転倒するもの等、皆独自の仕事と芸術へ生命をかけての悩みをやっている。同時にそれらの大部分はこの辛き世に一家世帯を背負った上の行進であり悩みである。
まったく芸術の展覧会の観賞は華やかの如くであるが、あのトワールの裏を覗くと、古きも新しきも若きも老いもみな、頼まれもしない苦労を死ぬまで続けているところの、それらの画家の顔が潜んでいることである点、多少とも松茸狩や秋の行楽に比して鬱陶しいことであるかも知れない。
さて今年は会員、会友、および一般出品者達の多くの力作によって壁面は埋められたがそれらの絵画彫刻の全部の数をそのまま大阪へ持参することは、会場の狭さが許さないため止むなくかなりの数を減じてしまったが、しかしその代表的作品は決して洩らしはしなかったから、あるいはかえってゆったりと並べることが出来、要所を観賞し得る便宜があることかとも思う。
何しろ最近はその出品数の増加とともに、小品の陶酔に飽き足らず、大いに画業の本格を究めようとする風潮も若き人達の間に現れ、勢い大作に向かって画家を動かしつつあるために画面の拡大され来たったことも目立つところのことである。
それから今年は有島生馬氏の滞欧作品と津田青楓氏の特別出品があり、その他川口軌外、福沢一郎両氏等の近代フランスの尖端的影響に動きつつある人達の特別出品があり、これなどは若き人達へ相当の刺激を与えるものであるかも知れないと思う。
[#地から1字上げ](「大阪朝日新聞」昭和四年十一月)
欧洲からの手紙
――愛妻重子へあてて――
一九二一年八月七日 支那上海に於て
門司を出て、お母さんや福本さんやと別れてから、大分に船のキソクや時間のウルササになれ、手紙をかく余裕も出来て来た。
昨夜は九州の五島列島の灯を左舷に見た。日本の最南端の灯台が明滅しているのが一寸心細いような、愉快な心地がした。海は静かだ。二等のスモーキングルームで林君や、硲、長島君などと夜更けまでしゃべって、一寸湯に入って寝た。よく寝た、由利さんから出発の際何かくれた品ものがある。何んだかわからなかったが、寝ていると、その品物の中から、虫が鳴き出した、鈴虫と松虫と朝鈴と云う奴が同時に声をそろえて鳴き出したのには驚いた。同室の人達が大喜びであった。玄海灘は大変静かだ、今朝から玄海灘を船は走っている。然しカナリの大うねりはある。めしはうまい、通じもあるし、健康はよろしいから安心してくれ。
船の中の生活は中々愉快です、よほどなれて来た。天候は今の処極く上等だ、運転士の話には、此の航海は一寸珍らしい程静かなもので、続く事だろうと云う、気休めとしても気もちはよろしい。大分船中になじみも多くなった。
玄海灘もすぎて支那海に船は入って来た。
こんな静かな航海なら、おかアさんが一ショに居てても、めったに酔わん事であろうと思う。
九月十七日に船は正確にマルセーユにつくそうだ。上海を出てからは又便りをするにも日がかかるから、大いに手紙を書いて置く次第だ。暑いのはホンコン、シンガポール間であるそうな。今は大変、内地に居るよりも風があって空気が乾いて居て涼しい、からだはサラサラしている。
二科に出す絵を忘れぬ様に、早く磯谷宛に送って置いてくれ。或はもう送ってくれたかもしれんけれども、これはとくに重子に頼んで置く。
船の中は、中々気が落付かんから、沢山にあっちもこっちもへ手紙をかく事が出来ない故この手紙をば廻章の様に、奧田、和田などへ、又その他に見せる人に見せて、すべてへの消息の代りとしてほしい。そして重子のもとへ、大切にとりかえして保存して置いてくれ。何れ又後便で…………皆たっしゃか、気をつけて、僕は大変健在。今朝、大きなババが出たので、気がせいせいしたよ。
泰ちゃんも、お悦ちゃんも、桃太も、たっしゃで………。
八月十三日 香港へあすつく日に
上海を出てからも海は大変に静かでまア結構だ。
台湾海峡もらくにすんだ、この調子で行ってくれればいいと思う。
明朝未明に香港へつくはずだ。
船中の生活にはよほどなれた。然し毎日、海ばかり見ているのでたいくつだ。鯨ぐらいやって来ればよいと思うが一向姿を見せない、仁丹の広告でも見たい。
一等船客には一番イヤナ奴が多い、政治家だとか経済学者みたいなケチ臭い奴が、ウルサイウルサイ。
大抵二等でエカキ連中と遊んでいる。
香港の見物は、自動車でぐるぐる舞う事になっている、面白い事と思う。
あす着港というので今日は大分ソーシャルルームで手紙をかいている人が多い。
おかアさんはもう別府から帰ったかしらん、神経を起さぬ様にせんといかん、ちっとも心配な事はないから。
暑さも、日本より反って涼しい。昨夜も船のデッキで、かぜを引く程にすずしかった。
考えて見ると、別府へ行った日が一番暑かった様に思う。
香港、シンガポール間が暑いそうなが、それから印度洋は又らくだそうな。
身体は毎日御ちそうをたべて、ゴロゴロねたりしているので、めしはうまいし、健康である、安心してほしい。
目方も時々計って見るがあまりへってはいない様だ。
何れ、香港へ到着の上はエハガキを出す事にする。
東京の方へ絵はもう出品したか、東京の磯谷額椽屋の処はわかっているか。
一寸思い出したが、瀧山氏へやる静物は、やはり非売として置いたらどうか。それともたきのやへ、くわしく電話で話しをしてくれるか、どっちなと。
ずい分船にのっている様に思うが、まだ香港だ、船というものはずい分のろいものだ。
印度洋まで行ったら、無線電信を一度打とうと思う。
郵便会社の方から船の発着などの通信が、るす宅へ行くそうなが、行っているか、もし行ってなかったら会社へ電話で聞いて見るがよい。
大分船には馴れて来たので、少々の波やゆれには感じなくなってしもうた。
昨夜は遠方で電光の閃くのを見た、少し夕立もしたが、海は静かだ。
船は支那の沿岸を近く走っているらしい、灯台の光りを時々見る。
三等には、ロシヤ人、支那人、ポルトガルの詩人などがいる、面白い。
用意して来たものの中では、トーチリメンのユカタが一番よく間に合っている。
それから最後に作ったねずみの夏服が実によろしい、毎日あれを着ている、よく作って置いた事だ。
上海で洋服を作るとか何んとか云うが、とてもそんな間なんぞあるもんか。
人の云う事は全くあてにならん。
デッキシューズもよろしかった。
タオルのねまきは、少しやはり暑すぎる。大抵クレープのシャツのままねている。
僕の準備は、大変、然しウマク、支度が出来ていたよ、これは感謝する。
洋食は三度三度だが、一向飽きない、だんだんすきになる。日本めしはライスカレー以外めったに食わぬ。
泰ちゃんも、皆たっしゃか。気をつける様に。
この手紙を三休橋の方へも持って行って見せてくれ。和田の方へも同じくたのむ。
八月二十日
船は明方の六時に出帆した。シンガポールもだんだん遠ざかって行く、又大洋へ出た。マランカ海峡を進む。
今日は追風で、暑い事甚だし、九十四五度である。
明日、彼南へつくそうだ、彼南はあまり見る処もないらしい。船は四時間停航して、すぐ出てしまう事になっている。
大分、遠くへやって来た。まだ二十日余の航海をせねばならぬ。
からだは極く健康である。
皆の健康を祈る。泰公はどうしているかな。
第一信の方は津田に見せてほしいから、皆見てしもたら立売堀の方へ郵送してくれ。
八月二十一日 シンガポールにて
Singapore を自動車で見物、途中の風景の一部を一寸お目にかける。
[#シンガポールの風景の挿絵(fig3555_01.png)入る]
市中をぐるぐると見物して、夜は日本料理を食うた。それから又にぎやかな処を、或は支那人町をウロツイて、夜の十二時頃に名物の支那おかゆを町のまん中ですすった。
一寸光景を記憶でかいて見ると、下の様である。
[#おかゆをすする光景の挿絵(fig3555_02.png)入る]
夜の十二時すぐ自動車をトバして船へ帰った。
八月二十五日 ペナン、コロンボ間にて
きのうから海は少し荒れている、風と雨とが間断なく、船は相当にゆれている。
然し、もうゆれても感じない程、船に馴れて来た。
林君のケビンで話し込んでいたら、船窓から波が入って来て、ザンブリと被った。
コロンボへはあさって着く、コロンボで此の手紙を投凾する。ペナンでは、停泊の時間が少なくて、手紙を出す事が出来なかった。
カジヤ町の僕の部屋は、キレイにそのままにしといてや。額をハズシたり、ものを片づけたりせずに、そっくりそのままにしといてや。
一寸部屋が見たくなって来た。又コロンボからハガキを出す。
もう、二科会も開かれている事と思う。出品の方は、あんじょうしといてくれたか。大分忙がしかった事やろと思う。身体の健康は如何、熱が出たり、夜ねられん様な事はないか。もしそんな場合には、阪村君の方へ行かんといかんぜ。泰ちゃんも気をつけてね。
おかアさんには心配せぬ様に云うといてや、よろしいか。
船中では気候の変化や、生活の変りで、ずい分病人が多い、が然し、僕は不思議にたっしゃである、毎日スキナものを食っているせいかもしれん。然し、毎日のオートミールも少し此の頃あきが来たので、今日からは日本のおかゆを
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