門司《もじ》の街《まち》を午後三時に散歩した時のやるせなき蒸暑《むしあつ》さが直ちに思い出された。上海や香港も暑かったが汗が直ちに空気と化す如く思えて、やるせなき暑さではなく心は常に晴々としていた。要するに日本の夏位汗を絞り出す空気はないようだ。殊に九月の初め頃の残暑の汗は、油汗といって皮膚の表面は重油を塗られた如くべっとりとして、終日乾燥しない傾向がある。悪性の汗だ。その重油の皮膚へ当る初秋の風の冷たい触感は情なくも憂鬱《ゆううつ》だ。その悪性の汗を夕方の一|風呂《ふろ》によって洗い清める幸福はいい加減な恋愛よりは高雅な価値がある。
 しかし汗もいわゆる軽く汗ばむという言葉の如く汗ばむ事は、人間の心を妙にときめかす力がある。そして男女の肉体の香気を秋よりも冬よりもむしろ春よりも実際的な力を以て立ちのぼらせる傾向がある。

 仲秋の月は鋭く冴《さ》えて清潔だが、少々気候が寒過ぎはしないか。月見に誘われて船の中で寒気のために固くなって帰った経験はしばしばある。私は殊に貧血性だから。
 本当に私に適当な月は、八月の盆の頃の月である。物干しへ出て寝ころびながら、月面の穴に見惚《みと》れ、その
前へ 次へ
全152ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小出 楢重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング