わからぬ涙を流して動かなくなってしまった。時にはそのまま二、三日も失神してしまう。私は何が何だかわからない。ただ彼女の前へ、朝から晩まで坐って慰めていた。R子は私の顔を見つめている間は笑っているのだが、客がくるとか、用事で立つと、すぐ泣き出すのだ。客と私が店で応対中は、暖簾の間から顔を出して微笑を私に捧げるものだから、客も少なからずおそれて逃げ出した。
 店はしたがって丁稚と番頭の二人の世界だった。手車を曳いて二人は顧客廻りに出るのだが、芝居裏のとある街角の電柱で手車はいつも一人待たされていた。巡査は時々この車は一体誰のものかといって、靴で一つ蹴って行った。
 今月も、来月も毎月損害ばかりだった。B夫婦はこの有様を心配して嫁を当分入院させようとした。一時間も離れてはいないR子が、私から隔離されるということは、彼女にとっては大事件だった。それを聞くと彼女は直ちに痙攣を起こして意識を失ってしまった。
 R子の目が醒めた時、そこは病院だった。
 病院のR子から幾通かの手紙が束になって来た。病院へ来てくれというのだ。病院へ行くことはならぬと禁じられていた私は、大方の時間を病院で暮して互いに眺め合っていた。するとR子の神経は私へ、私の神経はR子へ乗りうつって、とうとう私達はともに死のうといってしまった。死ぬより外に面白いことはなかった。
 その翌日病院からの手紙の一節には「私とともに死んで下さることにお心きまりし由うれしく存じ候」と記されていた。
 ある夜の八時ごろ、病院から抜け出した二人は、千日前の安写真屋で記念の肖像を撮って、南海線を南へ南へと散歩した。R子は、さあここがよろしいといったが、さあと声がかかると私は「ちょっと待って」と制した。
 せっかく来た汽車はまた行き過ぎてしまった。
 私はふと、銭入れの中に守札のあるのに気がついた。それで気おくれがするのだと思ってそっとまるめて道ばたへ捨ててみたりしたが、どうも構図のいい場所はさらに見つからなかった。

         6

 重クローム酸カリを、大コップ二杯へなみなみと溶解して、毎晩夜半になると二人は乾杯を試みたが、さあとなるとあの黄褐色は私の食慾をそそらなかった。
 やはり軌道と動輪との間の鋭角がいいと感じた。ある日また病院をぬけ出した二人は五、六里の郊外を散歩してその日暮れ時に、ちょうど適当な構図を発見した。森、草の茂み、星、虫の声、石塔の頭が並び、人家はなく、線路は近し、シグナルが青く、いくつかの列車が往復した。もう今度が終列車らしいのだ。これを外してはまたあす一日歩かねばならぬ。R子は私を抱いていうのだ。「今度こそは一と思いに、な」と念を押した。
 機関車は火の粉を高く吹き上げつつ近づいて来た。二人は立ち上がった。そしてそれから何も知らない。
 頭をひどくやられた私は、入院して約一カ月の間仮死の状態で暮してしまった。その間に文具屋は廃業され、R子の家の方もほぼ片づき、私はある寺院で出家させることにまで、プログラムが定められていた。
 その辺りで私が再びこの地球へ舞い戻って来た。私の蘇生は私にとっても誰にとっても迷惑なことなのだ。目が醒めると同時に私は、R子はどうしたかと皆に訊ねたが、皆返答に困った。
 私はまだ機関車の火の粉の前にいる気がした。「一と思いに、な」といったR子の声が強く耳にのこって消えない。私は何か適当な紐かナイフを求めたが、厳重に警戒されていた。
 R子はその場で粉砕されたことが、だんだん私に知れて来た。

         7

 その寺院は、ちょうど箱根の環翠楼とか何とかいうべきある山中に、多くの客室を持てる大寺院だった。信者は都会および全国に行き渡っていた。そして株屋、相場屋等が信者の中でも主位を占めていた。院主は金襴の法衣によって端麗であり、羽左衛門そのものであった。
 私は幾月間かの修業によって、得度の式を挙げさせてもらった。商人であったその才能と温順さが認められたものか間もなく取り立てられて院代様にまで成り上がろうとした。それには今少し学問が必要でもあったので私はK市へ下宿した。生まれて初めて洋服を着用した。もちろん金ボタンの大学の制服だった。角帽を被った。その意気な形はそのころの壮士芝居のスター秋月桂太郎を思わせた。芸者がきっと惚れるだろうとも思ってみた。間もなく私は髭を蓄えてみた。自分の幸福もいよいよ表通りへ出て来たなと思ってみた。出家してこんな明るいプログラムを行こうとは思わなかった。私は髭の出来た制服の記念撮影をして、B家その他へ送ってみた。それにつけて、R子がいたらさぞ喜んでくれたに違いないと思うと、最後に念を押した「一と思いに、な」といった声が、下宿の夜の退屈時には思い出されてくるのだ。
 私はある夜、新しい髭にチックをつけて、
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