底本では「この世へ」]出た以上はもはや魂だけのものではない。人間は五体を持った以上、人魂の如き自由自在は許されない。
まあ、止むを得ず私は裏通りから成長したわけだが、それはどこでどう成長したのか記憶がない。この世の光景が少々意識された時にはB夫婦の家庭で、丁稚のような仕事をさされていた。
2
そんなわけから、両親を知らない私の神経からは子供らしさとか、明るさとか、甘えるとかいうことは一切引き抜かれていた。ことに甘えて帽子を買ってもらう、甘えて洋服を、甘えて玩具を、鉛筆を、ナイフをということはまったく出来なかった。そこで私は甘えずに買うより外に途はなかった。小間物屋であったその店には銭箱があった。売上げの二〇銭はその一〇銭だけを銭箱へチャラチャラと音高く投げ込んで「有難う御座います」とか「ようおいでやす」とかいっておいて残る一〇銭を懐中へ落とし込めば、相当の収益は得られたわけだった。ある時、ニッケルの光輝あるナイフとその他いろいろの玩具類が畳の上に並べられ、主人Bの前でうつむいている私をみたことがあった。私の裏町の幸福がずらりと表へ並べられたのだ。
いつまでも父母に甘えることの出来る子供は、相当の年になってもなかなか熟さないものだが、甘えることの出来ない子供は何といっても感情的には独立しているから、強くかつ早熟だ。そして母に甘える代わりに広く一般の女性に甘えようとした。あえてしたわけではないが自然左様な傾向になって来たのだ。
もっとも私が接近し得る女性といえば庭に働く女中達だった。女中の入れ替わりというものは私を妙に嬉しく興奮させた。女中のCというのが瀬戸内海の小島から来た。美しかった。ところがこの女が私の食膳をひそかに豊富にすることに努力してくれた。お菜の分量が急にめきめきと常の二倍に達した。私は感謝せずにはいられなかった。そして私ははじめておかずの注文を企ててCへ甘えてみるのであった。
3
店の間には丁稚のQと、女中のCと、そして私とが寝ることになっていた。丁稚のQは横になるとむしろ仮死の状態にあったから、店の小間物の類とみなしてよかった。そしてCは夏の夜の温気で、いとも輝かしき横臥裸女となり切っていた。ある夜のこと私は思い切って暗闇の中にそっと立ち上がった。心臓の血が一時に頭に向かって逆流した時、私は片隅にあった天花粉の箱を覆してしまった。愕いた裸女は起き上がって電灯をつけた。天花粉の山積みせるところに私が蒼ざめて立っていたのだ。二人が白い粉の始末を夜の三時つけているうちに私達生まれて第一回目の結婚式が挙げられた。ちょうど幸いその頭の上には神棚があった。
夜の裏通りの二人の幸福が女中のゲロゲロによって暴露されようとしつつあった。
ある朝私の姿がB家から見えなくなって、がらん洞の感じだけが残された。Cが失神する位の蒼さを呈したのと、ゲロゲロでもって完全にB夫婦にも合点が行った。「Aよ話つけるすぐ帰れ」という新聞広告も省略された。どうせ今に舞い戻ります、見ててみなはれと皆が見当をつけた。
女中Cの始末と、生まれた子供の処置が大よそついたと思われるころ、予定の如く私は食いつめて、脚気を持って東京から舞い戻った。
4
親類中でも顔の利くというM老人が早速叱りがてら、相談がてらやって来た。この老人がいつも遊びに、あるいは叱言をいいにくる時間は常に晩の八時前後ときまっていた。それまでのコースは、相当余裕と手数がかかっていた。例えば家を出ると道頓堀の北詰を西へ曲がる。そして「おちよやんはいるか」といって暖簾をくぐるのである。茶の間の長火鉢のまえで紫藤のまむしを一杯食べて、それから小用に立って、その帰りにおちよやんの尻を一つ蹴るのである。この一と蹴りが何のことかはおちよやんよく心得ていた。すなわち二階三畳の間を掃除して、行燈と、煙草盆と、お茶と、その他いろいろな用意をする。さてM老人は二階へ。雑用の後、M老人は手も洗わず「どれ一つ親類のゴタゴタを片づけて来ましょうか」といって立ち上がるわけらしい。
おちよやんは時々私達へそっと喋る。「あのおっさん気をつけなはれや、いやらしおまっせ……。」
その手で煙管へたばこをつめながら、老人は私の前へいかめしくも坐って「何ということをした。罰あたりめが、恩を仇で返すとはそのことや」といった。私は平身低頭以外の何物でもなかった。
5
その後、難波あたりで小さな文房具屋が始まった。私と花嫁さんがきちんと向き合って店の番をした。B夫婦はまずこれで一と安心やといって安心をしてくれた。
花嫁R子は神経的な清潔さを持った女だったが、どうしたわけか、二、三カ月すると奥座敷のくらい壁に向かって、幾日もわけの
前へ
次へ
全38ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小出 楢重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング