ているのだった。あまりの苦しさから車道へはみ出した時、たちまち交通巡査は人道へ帰れと叫んだ。この窮屈な人道を行く五分間のうちにおいて女は二回まえを擽ぐられたという。次の五分間において二人の女性がある店頭に立った時洋服の中老紳士がその真中に現れ、気を付けの姿勢を保ちながら左右の女性を同時に驚かせた。しかるのち気をつけの姿勢のまま悠々と立ち去ったということだ。
 だがしかしこれを警察官も一つ一つ検束せず、女も本心から怒らないところに夜店のなごやかな雰囲気を見ることが出来るかも知れない。そして夜店の不良少年はそれらの汚名をことごとく引き受けている。だがしかし若い女性は中老の紳士をもっともおそれているそうだ。
 堺筋では例の画家達のやっているというミス・サカイスジの相貌が見たいので私は苦しい流れを行進した。そしてミスの横文字を発見した。ある父はマリオネットの人形を指して、「それお化けや、買うたろか」といったら子供は「いや! こわい」といって悲鳴をあげた。あるいは若い亭主が妻に向かって「これが芸術というもんや、どや」といったりした。それらの言葉を聞いているだけでも相当の興味が持てたが、何しろ五分間と停滞することを許されないので私達はそのまま揉まれつつ押し流されてしまった。
 偶然にも平野町へ来ると六の日とみえて、ここも夜店で賑わっていた。平野町は御霊神社をめぐる古来有名な夜店である。新旧二つの夜店が十文字に交叉するということははなはだ面白い現象だった。私はほっとしてこの古い顔の夜店へ吸いよせられてしまった。
 ここは道もゆるやかだし、電車も巡査もいない。危険と苦痛がないことは何よりだった。そして第一に屋台の様子がその店の個性を出して思い思いの意匠を凝らしているところは歩行者によき慰めを与えるのである。そして香具師と和本屋と古道具屋と狐まんじゅう、どびん焼、くらま煮屋が昔そのままの顔で並んでいた。私が十幾年以前に初めてガラス絵を買ったのもこの平野町だった。末期的な役者の似顔絵と、人形を抱く娘の像の二つを発見して妙に執着を持った。私は多分一枚五〇銭で買ったと記憶する。それが病みつきでとうとうガラス絵とは妙な仲となってしまった。
 私は香具師がする演説に感心してしばらく立ち止まって聴く。大根の皮をむく機械など使う手練の鮮やかさは、ついその役にも立たぬものを買ってみたくさせるだけの才能がある。あるいは猿股の紐通し機械を売る婆さんは猿股へ紐を通しては引き出し、また通しては引き出している。私は時に猿股の紐がぬけた時、あれを買っとけばよかったと思うことがある。さてその前へ立った時、どうも買う勇気は出ない。あるいは暗い片隅でさくらが役にとられた顔つきで珍しくもない万年ペンを感嘆して眺めている。その姿を見ると私はそこに夜店そのものの憐れにも親しむべき心を発見する。その他、悪資本家退治の熱弁のお隣で木星の観測だといって遠眼鏡を覗いている。それらの浮世雑景の中をまたその点景の一つとなってうろついていることが私自身の浮世でもある。
[#地から1字上げ](「大阪朝日新聞」昭和五年七月)

   立秋奈良風景

 奈良、大和路《やまとじ》風景は私にとっては古い馴染《なじみ》である。あたかも私の庭の感じさえする。さてその風情《ふぜい》の深さも、他に類がない。何しろ歴史的感情と仏像と、古寺と天平と中将姫と、八重桜と紅葉《もみじ》の錦《にしき》と、はりぼての鹿とお土産《みやげ》と、法隆寺の壁画、室生寺《むろうじ》、郡山《こおりやま》の城と金魚、三輪明神《みわみょうじん》、恋飛脚大和往来《こいびきゃくやまとおうらい》、長谷寺《はせでら》の牡丹《ぼたん》ときのめでんがく及びだるま、思っただけでも数限りもなくそれらの情景は満ちている。
 私が美校にいた時分など、夏、冬、春の休みには必ず関西へ帰った。その誘因は大和の春、奈良の秋の思出に他ならなかったという位のものだ。全く、関東の何処《どこ》にもない情緒と温味のある自然であり、春の暢《のど》やかさと初秋の美しき閑寂さは東京の下谷《したや》、根津《ねづ》裏で下宿するものにとっては、誘惑されるのも無理でない事なのだ。近頃、妻が何か不愉快|極《きわ》まる美文ようのものを声高く朗読するので、何かと思って聞いていると、それは私が昔、下宿屋の二階で書きつけた大和路礼讃の頗《すこぶ》る悪寒《おかん》を伴う日記の一節だった。私は直ちに発禁を命じた。

 或《ある》夏から秋へかけて、奈良で写生がてら暮して見た事がある。そして奈良位暑い印象を与える処はないと思った。何しろ川がなく、池と水|溜《たま》りと井戸が奈良唯一の水辺風景なのだから。
 殊に猿沢池《さるさわのいけ》からかんかん照りの三条通りを春日《かすが》へ登って行く午後三時の暑さと来ては類が
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