、神戸を離れたと思われるころ思いがけないところに電灯の輝く長い一筋を発見することである。夜店の賑わううしろの暗に青い麦畑を見ることもまた場末の情景である。近ごろは芦屋でさえも夜店は相当の賑わいを呈して来た。子供はその三と八の日を忘れない。

     大阪

 さて大阪は昔から商業の中心地であり、大体において中心地帯は大問屋が軒を並べているためか夜になると各戸ともに戸を締め切って街路はまったく暗やみとなって静まり返ってしまう傾向がある。晩に店を開くものは小商人としてむしろ軽蔑されがちだった。まず大阪の町は暗いのが特長だといっていいかも知れない。ずっと以前は梅田から堺筋を経て恵比須町にいたる間において、ただ日本橋のあたりが夜の灯に輝いたに過ぎなかった。そして日本橋三丁目あたりのある暗い夜店では私は幾度か兄さん兄さんと見知らぬ女に捉えられたくらいの淋しさだった。驚いてよく見ると、五人のうす汚れした女が立っていた。
 現代[#「現代」は底本では「現在」]では街の明るさは街灯によって増したけれども、でも堺筋の大部分の家は昔と同じく夜は戸を締めた暗い街路に過ぎない。第一流の散歩道といわれる心斎橋でさえも、この現代において、北は久太郎町から難波駅にいたるただ十町ばかりが心ブラ地帯であるに過ぎない。若き暇な芸術家は一夜に心斎橋を幾往復するか知れないという。さても辛抱の強さよ。
 したがって大阪の夜店は暗黒の街路を一、六、三、八、といった日に氏神を中心としてその付近を急激に明るくして楽しもうとする傾向がある。私の子供時代の大阪の夜の暗さは徳川時代の暗さをそのままに備えていた。だから夜は寝るよりほかに途はなかったものだ。したがってまだ宵の一〇時ごろに火事の半鐘がじゃんと鳴ってさえも、丁稚や番頭は悦びに昂奮して飛び上がったものだ。縁もなきよその火事でさえも一応は火事半纒を着用して、えらいこっちゃ、近い近いと走り出した。そして彼らは火事が終わりを告げ、火の気がなくなるまでかえっては来なかった。それくらい若い男たちは退屈だったのだ。丁稚や私の幸福は、すなわち火事と夜店の八の日だった。それは八日、一八日、二八日に出るところの大宝寺町の夜店だった。母はその日がくると今夜はよのよだといった。すなわち横町の夜店の略称だ。すなわちよのよの日は女中も番頭も丁稚もめかしこんでぞろりぞろりと繰り出すのだ。暗い町が急に明るくなり、淋しい町が急激に賑わうことは何といってもわれわれを昂奮させた。まったく夜店は夏は夏で西瓜と飴湯に暑さを忘れ、冬は冷たい風を衿まきで防ぎつつカンテラの油煙を慕って人々は流れて行く。ことに年末の松竹梅と三宝荒神様のための玉の灯明台、しめ縄餅箱を買うことは、われわれの心へいとなつかしき正月の情趣を準備させることだった。春になって風の温かい日がくると夜店の灯火は誘惑をことのほか発揚する。そして何といっても夜店の誘惑は夏である。
 人間が不思議な温気と体臭を扇子や団扇で撒き散らしながら、風鈴屋、氷屋、金魚屋、西瓜屋の前を流れて行くのである。その大宝寺町の夜店は今なお盛んに行われている。私はなつかしみつつ今も時に歩いてみることがある。それから四、五年間私が住んでいた八幡筋へも八幡社を中心とする夜店が出た。自分の家の前が雑踏することは子供でもない私を何か妙にそそるところがあった。私は夜店の人の流れがおおよそ引去った一二時ごろひっそりと夜店の末路を歩いてみるのが好きだった。そして古屋敷の徳川期の絵草紙類や娘節用、女大学の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵に見惚れて仏壇の引出しを掃除しているごとき気になって時を忘れたものである。
 さて、近代の堺筋はどれだけ明るさを増したかを見るに、もちろん街路に電灯は輝いたけれども、多くの家はなお夜は戸を締めている。その暗いトンネルをタクシーのヘッドライトが猛烈に流れている。クラクソン[#「クラクソン」は底本では「クラクション」]は叫ぶ。自分の話す声さえ聞こえない電車の車輪の鉄の響である。タクシーの助手は乾燥したいびつな顔を歪めつつわれわれの前を通る時、一本の指を一休禅師の如く私に示しつつ睨んで行く。その一本の指にこそ現代[#「現代」は底本では「現在」]の複雑な心が潜んでいることを私は感じる。
 タクシーの示す指の相貌と同じ相貌を私は近ごろ試みられつつある堺筋の新しき夜店を訪ねて発見した。夜店は指を示してはいなかったが、堺筋の夜店では旧夜店の相貌を見ることは出来なかった。平均された貧しく白い屋台の連続と手薄い品物と何か余情[#「余情」は底本では「予情」]のない乾燥とが、かの桃色の小型タクシーを思い起こさせた。そして堺筋の歩道の狭さは殆ど二メートルと見えた。その中を往と復との群衆が衝突し
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