ら、虫が鳴き出した、鈴虫と松虫と朝鈴と云う奴が同時に声をそろえて鳴き出したのには驚いた。同室の人達が大喜びであった。玄海灘は大変静かだ、今朝から玄海灘を船は走っている。然しカナリの大うねりはある。めしはうまい、通じもあるし、健康はよろしいから安心してくれ。
 船の中の生活は中々愉快です、よほどなれて来た。天候は今の処極く上等だ、運転士の話には、此の航海は一寸珍らしい程静かなもので、続く事だろうと云う、気休めとしても気もちはよろしい。大分船中になじみも多くなった。
 玄海灘もすぎて支那海に船は入って来た。
 こんな静かな航海なら、おかアさんが一ショに居てても、めったに酔わん事であろうと思う。
 九月十七日に船は正確にマルセーユにつくそうだ。上海を出てからは又便りをするにも日がかかるから、大いに手紙を書いて置く次第だ。暑いのはホンコン、シンガポール間であるそうな。今は大変、内地に居るよりも風があって空気が乾いて居て涼しい、からだはサラサラしている。
 二科に出す絵を忘れぬ様に、早く磯谷宛に送って置いてくれ。或はもう送ってくれたかもしれんけれども、これはとくに重子に頼んで置く。
 船の中は、中々気が落付かんから、沢山にあっちもこっちもへ手紙をかく事が出来ない故この手紙をば廻章の様に、奧田、和田などへ、又その他に見せる人に見せて、すべてへの消息の代りとしてほしい。そして重子のもとへ、大切にとりかえして保存して置いてくれ。何れ又後便で…………皆たっしゃか、気をつけて、僕は大変健在。今朝、大きなババが出たので、気がせいせいしたよ。
 泰ちゃんも、お悦ちゃんも、桃太も、たっしゃで………。

 八月十三日 香港へあすつく日に
 上海を出てからも海は大変に静かでまア結構だ。
 台湾海峡もらくにすんだ、この調子で行ってくれればいいと思う。
 明朝未明に香港へつくはずだ。
 船中の生活にはよほどなれた。然し毎日、海ばかり見ているのでたいくつだ。鯨ぐらいやって来ればよいと思うが一向姿を見せない、仁丹の広告でも見たい。
 一等船客には一番イヤナ奴が多い、政治家だとか経済学者みたいなケチ臭い奴が、ウルサイウルサイ。
 大抵二等でエカキ連中と遊んでいる。
 香港の見物は、自動車でぐるぐる舞う事になっている、面白い事と思う。
 あす着港というので今日は大分ソーシャルルームで手紙をかいている人が多い。
 おかアさんはもう別府から帰ったかしらん、神経を起さぬ様にせんといかん、ちっとも心配な事はないから。
 暑さも、日本より反って涼しい。昨夜も船のデッキで、かぜを引く程にすずしかった。
 考えて見ると、別府へ行った日が一番暑かった様に思う。
 香港、シンガポール間が暑いそうなが、それから印度洋は又らくだそうな。
 身体は毎日御ちそうをたべて、ゴロゴロねたりしているので、めしはうまいし、健康である、安心してほしい。
 目方も時々計って見るがあまりへってはいない様だ。
 何れ、香港へ到着の上はエハガキを出す事にする。
 東京の方へ絵はもう出品したか、東京の磯谷額椽屋の処はわかっているか。
 一寸思い出したが、瀧山氏へやる静物は、やはり非売として置いたらどうか。それともたきのやへ、くわしく電話で話しをしてくれるか、どっちなと。
 ずい分船にのっている様に思うが、まだ香港だ、船というものはずい分のろいものだ。
 印度洋まで行ったら、無線電信を一度打とうと思う。
 郵便会社の方から船の発着などの通信が、るす宅へ行くそうなが、行っているか、もし行ってなかったら会社へ電話で聞いて見るがよい。
 大分船には馴れて来たので、少々の波やゆれには感じなくなってしもうた。
 昨夜は遠方で電光の閃くのを見た、少し夕立もしたが、海は静かだ。
 船は支那の沿岸を近く走っているらしい、灯台の光りを時々見る。
 三等には、ロシヤ人、支那人、ポルトガルの詩人などがいる、面白い。
 用意して来たものの中では、トーチリメンのユカタが一番よく間に合っている。
 それから最後に作ったねずみの夏服が実によろしい、毎日あれを着ている、よく作って置いた事だ。
 上海で洋服を作るとか何んとか云うが、とてもそんな間なんぞあるもんか。
 人の云う事は全くあてにならん。
 デッキシューズもよろしかった。
 タオルのねまきは、少しやはり暑すぎる。大抵クレープのシャツのままねている。
 僕の準備は、大変、然しウマク、支度が出来ていたよ、これは感謝する。
 洋食は三度三度だが、一向飽きない、だんだんすきになる。日本めしはライスカレー以外めったに食わぬ。
 泰ちゃんも、皆たっしゃか。気をつける様に。
 この手紙を三休橋の方へも持って行って見せてくれ。和田の方へも同じくたのむ。

 八月二十日
 船は明方の六時に出帆した。シンガポ
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