暗い町が急に明るくなり、淋しい町が急激に賑わうことは何といってもわれわれを昂奮させた。まったく夜店は夏は夏で西瓜と飴湯に暑さを忘れ、冬は冷たい風を衿まきで防ぎつつカンテラの油煙を慕って人々は流れて行く。ことに年末の松竹梅と三宝荒神様のための玉の灯明台、しめ縄餅箱を買うことは、われわれの心へいとなつかしき正月の情趣を準備させることだった。春になって風の温かい日がくると夜店の灯火は誘惑をことのほか発揚する。そして何といっても夜店の誘惑は夏である。
人間が不思議な温気と体臭を扇子や団扇で撒き散らしながら、風鈴屋、氷屋、金魚屋、西瓜屋の前を流れて行くのである。その大宝寺町の夜店は今なお盛んに行われている。私はなつかしみつつ今も時に歩いてみることがある。それから四、五年間私が住んでいた八幡筋へも八幡社を中心とする夜店が出た。自分の家の前が雑踏することは子供でもない私を何か妙にそそるところがあった。私は夜店の人の流れがおおよそ引去った一二時ごろひっそりと夜店の末路を歩いてみるのが好きだった。そして古屋敷の徳川期の絵草紙類や娘節用、女大学の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵に見惚れて仏壇の引出しを掃除しているごとき気になって時を忘れたものである。
さて、近代の堺筋はどれだけ明るさを増したかを見るに、もちろん街路に電灯は輝いたけれども、多くの家はなお夜は戸を締めている。その暗いトンネルをタクシーのヘッドライトが猛烈に流れている。クラクソン[#「クラクソン」は底本では「クラクション」]は叫ぶ。自分の話す声さえ聞こえない電車の車輪の鉄の響である。タクシーの助手は乾燥したいびつな顔を歪めつつわれわれの前を通る時、一本の指を一休禅師の如く私に示しつつ睨んで行く。その一本の指にこそ現代[#「現代」は底本では「現在」]の複雑な心が潜んでいることを私は感じる。
タクシーの示す指の相貌と同じ相貌を私は近ごろ試みられつつある堺筋の新しき夜店を訪ねて発見した。夜店は指を示してはいなかったが、堺筋の夜店では旧夜店の相貌を見ることは出来なかった。平均された貧しく白い屋台の連続と手薄い品物と何か余情[#「余情」は底本では「予情」]のない乾燥とが、かの桃色の小型タクシーを思い起こさせた。そして堺筋の歩道の狭さは殆ど二メートルと見えた。その中を往と復との群衆が衝突し
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