ともに渾然として心の隅から好感が湧き上がってくる。
 あまり若い好男子を高座に見ると、かえって例えば若い男のある何物かを発見した如き、なまいやらしさを感じさせられ、彼が何を上手に喋ったところで皆不愉快の種となってしまうこともある。
 何事によらず一代の名人巨匠となると女子供にはちょっと了解致し難い人間のぬしとなり切ってしまい、狐でいえば金毛九尾となって、狐の中の超正一位のぬしとなる。
 上野の森を大観という画人が大ぜいの部下に護られて歩いていると、それは絵描きのぬしとも見えたりすることがある。
 名優の素顔も、手にとってじっと眺めてみたら、きっとがっかりする位の奇怪さを備えたものだろうと思う。ありあまりたる鼻の高さや頤の長さ等、写真のクローズアップの如く顔全体異状だらけだと思う。その位の大げさな異状を舞台へかけて遠望すれば、ちょうどはっきりとまとまったところの強き美しさにまで縮むものである。そしてその不思議な構成の強さによって心の動きもはっきりと放散出来る次第だ。
 だから座敷で見ての好男子を舞台へ立たせたら縮まってしまって、何もかも見えないところのいじけたる存在となってしまうだろう。
 文楽座の人形の顔を座敷で手にとって見ると、案外小さいものである。野球のボールの二、三倍位のものだろう。ところがその顔の造作が素晴らしく大げさにいかめしく出来上がっているところへ、はなはだ大まかなその使い方によって、あの人形が広い舞台一杯にのさばり出して大きな印象をわれわれに与える。
 ちょうど油絵の仕組みと同じく、常に遠く眺めてよき効果あることを考えつつ作って行くのに似ている。近くで見てちょうどよろしき仕上げでは壁面へ収まって[#「収まって」は底本では「収まってしまう」]から、色も調子も飛んでしまって存在が弱い。
 元来日本の油絵は奥行きと調子がなく、味わいはあるがうすっぺらで展覧会場で引き立たず、色ざめてしまい小細工となっていじけがちであることは、日本人が常に畳の上で色紙を描き炬燵によって美人の顔ばかりを鑑賞していた遺風によるものであるかも知れない。総じて西洋ふうの芸術は舞台的だといっていいと思う。
 相当の役者にして、どうもも一つ素晴らしく大成しないものがある。私はそれらの顔に、すなわち持って生まれた素顔の構成上、致命的な鼻の低さ小ささ等を発見して、気の毒に思うことがある。しか
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