る。
草木の葉は刈取るとすぐ萎《しな》びてしまうが毛髪は萎びない。
人間の毛髪を刈取ったものを私は寺の本堂や小さな祠《ほこら》の壁や柱に、亥《い》の年の女とか何とか記されて吊《つ》り下げられてあるのを見る。多少の埃《ほこり》が積《つも》っているので汚いけれども、よく掃除をして見たら相当の光沢を生前の如く現すだろうと思う。
真夏の昼、蝉《せみ》の声を樹蔭に聞きながら本堂の縁側に憩いつつ内陣の暗闇《くらやみ》を覗《のぞ》くと、この女の黒髪が埃をかぶってその幾束かが本尊の横手の柱から垂《た》れ下っているのを見るとき、いとも冷たい風が私の顔を撫《な》で、私の汗は忽《たちま》ちにして引下るであろうところの妖気《ようき》を感じるのである。私はこの不気味を夏の緑蔭に味わうのが好きである。そこには女一代の古びたるフィルムの長尺物《ながじゃくもの》を感じることさえ出来る。
さて、近代的交通機関とその宣伝の行届く限りの近郊風景は悉《ことごと》くこの黒髪の妖気と閑寂なる本堂の埃と暗闇の情景を征服して、寺といえども信貴山《しぎさん》となり生駒《いこま》となり六甲《ろっこう》となり、電燈とケーブルと広告と三味線と、ニッカボッカとルナパークと運動会の酒乱と女給と芸妓《げいぎ》と温泉の交響楽を現しつつある。
妖気も緑葉も、珍鳥も、神様も、人間の目算にかかっては堪《た》まらない。彼らは一つ向うの山々へ逃げ込んでしまった。もっと交通が発達して全日本が新開的遊園地と化けてしまう日が来たら、神様も幽霊も昆虫も草木も、皆|悉《ことごと》く昇天するかも知れない。
さて、私もまた、自然を荒すであろうところのデイゼルエンジンの小刻みの近代的な震動と、その事務長であったところの絵の好きなI氏の誘惑に乗って去年の夏、南紀の海と山を味わって見た。
汽車も電車もない上に潮岬《しおのみさき》の難所を持った南紀の風景は、まだ生駒や六甲ではなかった。妖気と黒髪が持つであろうところの不思議を十分にまだ備えていた。しかし田辺《たなべ》の町へほんのちょっと降りて見て、直《すぐ》に私はその横町に道頓堀と同じレコードの伴奏によって赤玉を偲《しの》ばしめるであろうところの女給の横顔を認めることが出来た。頼もしくもまた悲しくもあった。
しかしながら更に南進して黒潮を乗切ると、もう人間の力は幽霊と妖気に降服してしまっていた
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