以前の優秀車が主人の鼻の脂で輝きつついとも珍型となって大都会を走る事は、また新鋭的な雅味をもたらすであろうと思う。
だがまだまだ、新鋭的尖端が漸《ようや》く旧《ふる》き古色と雅味を追い出そうとする折から、新日本の新尖端的滋味雅趣を求める事は無理だろう。
しかし、巴里《パリ》なぞにはこの新らしき雅味が至る処に存在する。それが巴里の羨やましい処で仏像を洗い落したような尖端は発祥しない。それが芸術家をして巴里の生活を憧《あこ》がれしめる重大な原因の一つでもあるといっていいかも知れない。
この間、オールスチールの尖端的スピードを有する大阪の近郊電車へ乗って見た。光沢あるエナメル塗りの内部は相当の近代であった。するとどやどやと嵐山《あらしやま》見物の一群が押よせ、さアずっとお通りなはれ、奥は千畳敷や、中銭《なかせん》はいらんといいながら、その中でも一番厚かましい老婆が私と私の隣との間の甚だ少しの隙間《すきま》をねらって、尻をもって押しあけようと試みた。それで尖端電車は忽《たちま》ち垢だらけとなってしまった。
私の近くにモボが淋しく窓外を眺めていた。これはこの近代電車に調和していた。すると両袖の長い女給が走って来た。えらい待たしたやろ、すまなんだといってその隣へ腰をおろした。暫《しばら》くするとモボは紙包みの中から一束の古ぼけた写真を取り出して女に見せるのだ。「あれが俺《お》れの親父《おやじ》でこれがお母さんや」といって両親を紹介している。
私はその両親の肖像に同情して見た。何しろ写真の事だから「これ息子、阿呆《あほ》な事するな」といいたそうだが声が出ない。父と母は完全に女給への恋のカクテルとなり切っているのであった。それにしても古ぼけたるカクテルではある。大阪の尖端にはこんな埃はいくらでもある。
緑蔭随筆
一本の草、一枚の葉の弱々しいあの軟《やわら》かなものが、夏になると、この地上を完全に蔽《おお》いつくしてしまう。そしてどんな嵐が来ても、梅雨の湿りが幾日続いても、破れもしなければ色が剥《は》げ落ちたということもない。
もしも、人間の手工品ででもあったなら、百貨店やカフェーの紙の桜であるならば、全く一日も嵐の中には立っていられまい。
緑の黒髪という。その人間の毛髪も頭を蔽うところの草木とも思える。私は毛髪の美しさと同時にその不思議な丈夫さに驚いてい
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