との鞘へ収まろうとするのである。もう世の中全体の浮気も一段落を告げ、もはや何を見ても満目青いことである。それからだんだん自然の青さと暑さは増すばかりだ。
 この青さと暑さが私にとってよい合薬だ。私は私の故郷へでも帰った心地がする。もう電車や汽車に乗っても、酔っぱらった青年団や旗を持った運動会にも出会わない。まず家を出て仕事をして帰るまで、さほど機嫌を損じることもない。まず五月の風景は私の野外における仕事始めのかき入れ時である。
 ところが多少困ることにはこの安心な初夏風景は絵の構成上、色彩に不足を感じることである。すなわちただ一切が緑であるから。
 それでようやく辛うじて、空と水とによって画面の色彩に変化を保たせようとするのである。絵描きに限らず人は何となく、夏になると水のそばへ行きたがるのもあるいは同じ要求からかも知れないと思う。
 でもまだ初夏には若葉のよき階調があるけれども、もう梅雨を過ぎるといよいよ緑は深くどす黒く、ただもう鬱蒼として黒いのである。したがって画面はすこぶる単調を免れない。
 しかしながら私はそれで満足して、静かに日傘の下で安心して仕事をつづけることが出来る。
[#地から1字上げ](「新潮」昭和二年五月二十六日)

   夏は自動車

 夏はことに自動車のドライヴはすがすがしい。まして自分自身でドライヴすることが出来たらさぞ愉快なことと思う。しかしながら私は大体雑念妄想の多い性質だから、ハンドルを握りながらすれちがった美人について考えたりするうちに一〇〇メートル位は進むことであろうから、そのうち何者かに突き当たらずにはいないであろう。だから私は自分でドライヴする道楽だけは、万一自動車の古手が一〇〇円位で手に入るとしても決してなすべきことではないと断念している。
 自動車というものは軌道がないので、何となく自由な走り方をするのが好きだ、一直線でなく、人間の歩行と同じく、多少とも千鳥足で進行するところが、大変自分の心のために安楽と自由を感ぜしめる。
 軌道の上に鉄の車が嵌めこまれているところの電車や汽車は直線の上を窮屈に進み、その代り安全であり安定はしているが、その安全からくる退屈さはまた格別である。
 ところで自動車はむしろ、不安全と不規則と危険に満ちている。左右にゆらゆら動きながら、思っただけの速度の緩急を随時に行いつつ走るので心を束縛することがなく、気随気ままを振舞うことが出来る。気随、気ままで危険に充ちた興味を味わうことは、近代のわれわれの心を慰めるのにもっとも適当である。そしてわれわれは退屈から救われるのである。
 その点、汽車に終日乗ってみると安全ではあるが、いくら欠伸をしてもし尽せない位の欠伸を催す。
 私はしばしば自動車の遠乗に誘われる。その時車上の家族は主体であり、自然風景はことごとくたんなる背景となるに過ぎない。水の流れる如く、人も海も山も家もただ後ろへ流れて行くだけである。
 まったく自動車のドライヴでは、距離や哩数はたんに指針の尖端にのみ現れるに過ぎない。本当の地球の広さはわからない。したがってドライヴの旅の印象は、活動写真で見た実写ものの記憶と殆ど同じことであるといっていいと思う。
 私はいつか奈良ホテルから、公園を自動車で通過したことがあった。その時の奈良はちょうど渡欧の途中で見物したシンガポールの植物園とほぼ同じだった。そして歩いている男女は土人の如く見えてしまった。そして別の日に、私は同じ公園の古さと広さと長閑さと人情とがわかった。もちろん私の足で歩いたのだ。
 何しろ自動車のドライヴは愉快だがあらゆる人情と風景と地球が縮まってしまうことは惜しむべきことだと思う。しかしまあ、自動車のドライヴはその日の天候とテンポの速さの近代味を楽しめばそれでいいのだ。そしてなお車上の親愛なる人間同士が親愛であれば幸甚であろう。とにかく夏はオープンの車体を走らせることが壮快にして晴々していることではある。

   上方近代雑景

「今はもう皆あれだす[#「今はもう皆あれだす」に傍点]、うちの子供にもあんなん買うたろ[#「うちの子供にもあんなん買うたろ」に傍点]」といって漸《ようや》く着せて見た洋服を、私は心斎橋筋《しんさいばしすじ》の散歩で沢山見受ける。即ち女の子は、近所の女給かダンサーの扮装《ふんそう》となって街頭に現れる。その両親は、どうだす、見てんかという顔で歩いている。
 あるいは子供のスカートの裾《すそ》が妙に厚ぼたくふくれているので何かと思って近寄ると、とても長い洋服にウンと縫上げがしてあった。五、六歳の子供だが、多分女学校へ入学してから漸く身に合うに至るだろう。あるいは男の子のズボンが膝《ひざ》の下何寸かに垂れ下っていて上着《うわぎ》に大きなバンドがあり、それへ粋《いき》な帽子を着
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