へその大蜘蛛の姿を墨で描いて、鋏で切り抜くのであった。切り抜いてみると、自分で今切り抜いた筈のその絵の蜘蛛が、心もち悪くて自分で掴めない位なものである。それを我慢しながら、その八本の足の先端へ糊をつけて暗い壁へ貼付けるのである。すると胴体だけが少し浮き上がってちょっと見ると本ものに見えるのである。しかる後、私はさァ皆来てくれ、くもやくもやと騒ぎ廻るのだ。
 ある時蜘蛛を生捕りにすることを自慢のおやじが近所にいた、おやじは早速団扇と篩とを持ってやって来て、さあ見なはれや、今生捕りまっさかいといいながらその紙の蜘蛛へ一生懸命篩を被せているのであった。ところが足が糊づけだから、なかなか蜘蛛は動かないのだ。何度被せてみても元の如くちゃんと壁に噛みついているのである。さすがのおやじも少し不気味に思えたとみえて、これはおかしいぞといって少し蒼くなった。見物していた皆のものも少し変な顔をした。おやじはとうとう団扇でくもをなぐりつけたものだ。すなわち紙の蜘蛛はヒラヒラと散って来た。裏は真白だったからおやじは怒った。もこれからは、ほんまにぼんぼん蜘蛛が出たかて、取ったれへんぞといって帰ってしまった。そして学校で教わった狼の話を私は思い出してはなはだすまないと思ったことがある。

   五月の風景

 私は冬中をば冬眠中の蜘蛛の如く縮み上がって暮す。そして冬眠中に出来そうな仕事、例えばストーブの側で裸女を描くとか、あるいは公設市場で蔬菜静物を買い込んで来てテーブルへ並べてみるとか、あるいは子供の流感に喫驚して代診の如く体温計を持って走ってみたりなどするのである。
 ところでいくら神様が造ったと称する不思議にも立派な裸女や蔬菜静物といえども、毎日毎日眺めていると食べものと同じく飽きるものである。ああ、またカボチャかと思う。こうなってはもはや、何事もおしまいである。早く春になれと思う。新鮮な風景を早く描きに出たいと考える。それで私は人一倍春を待つのである。
 大体春というものはいじけているものを伸上がらせるものである。私が春に会うて伸出すと同時に冬中縮みながら考えていたところの芸術という私の一番大切な考え以外における私の体内にひそむその他のあらゆるものまでを共に伸上がらせてしまうのである。伸出すものは私ばかりではない世の中の花が揃って咲出すのである。本当の蜘蛛もそろそろ動き始める。すると汽車や電車は浮上がり伸出した人達でもってすでに一杯となっているし、往来へ出ると御馳走の嘔吐が吐き散らされているし、浪花踊が始まっていたり、芦辺踊の紅提燈がずらりとお茶屋の軒に並んでいたりするのである。すると私はちょっとカン※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]スを枠へ貼ってみたり、あるいはちょっと外出してみたり、帰ってみたり、またちょっと出てみたり、また帰ってみたり、あるいは「どうしたものか知らん」「何んぞ」「どないぞ」「何んとか一つ」といった言葉を繰返しながら、すこぶるよい天気の一日を殆ど中腰となって、動物園の狐が檻の中でする如く狭い部屋の中をぐるぐると巡回するのである。こうなるとしまいには何とも知れない憂鬱が込み上がってくるものだ、わけのわからない癇癪が立ちのぼってくる。
 私はこんな状態になったある日のこと、とうとう私は妻君にちょっとしたいいがかりをして、食べていたお茶漬を襖へ向かって投げつけたことがあった。襖は破れて茶碗は半分、唐紙へ食い込んだ。その穴から襖の中へお茶漬が半分流れ込んであとの半分は畳の上へ散乱したものである。散乱したお茶漬というものは随分穢いものだと私は思った。私はそれを見るに忍びないので二階へ駆け上がったがどうも気にかかって堪らないので二〇分ばかりの後、そっと下りて茶の間を覗いて見た。すると驚いたことには何もかも綺麗に片づけてあるのにこわれた茶碗とお茶漬だけは、散乱したままそっと宝物の如く大切に保存されてあるのだった。これには少し弱った。一刻もこんな穢らしいものを捨てておけないと私は考えたが、今さら掃除を命じるのはくやしいから、掃除位なんだと私は叫んで箒を持ってめし粒を掃き寄せ、襖の穴へは紙を貼った。流れ込んだ茶漬は仕方がないからそのまま封じ込めてしまった。
 その後私はその襖を見るたびにこの中には、あのめし粒が入っているんだなと思うのである。

 まずそんないろいろの悩ましき障害から、私は春になったら花を描いてみよう、桃のある間にあすこへ出かけて二、三枚制作してみようなど数年来同じことを考えていながら、ただそわそわとしてまだ一枚の春らしい絵も作らず、今年こそ今年こそと思いつつこの季節を逃してしまうのである。
 ようやくにして多少の猥褻の気を含める桜の花も散りはて、柿の若葉が出揃い、おたまじゃくしが蛙となって鳴き出す頃、初めて私の神経がややも
前へ 次へ
全60ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小出 楢重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング